高天原異聞 ~女神の言伝~


 静謐を湛えた美しい夜の世界に、一柱の神が降り立った。

「ここが、夜の食国か……」

 思兼命《おもいかねのみこと》が呟く。
 その言霊も、夜の静寂の中に染み込み、消える。
 本来、主である月読命《つくよみのみこと》の許しなくば、其処へ到る道筋を見つけることも足を踏み入れることも叶わぬ世界。
 だが、手にしている神器が、此処へと導いてくれた。
 美しい真円を描くそれは、鏡であった。
 かつて太陽の女神が与えた神威が宿るその鏡は、対となる片割れを失いながらも未だ凄まじい神威を秘め、真実を映し出す。
 夜の食国への目に視えぬ道筋を映し出したのも、この鏡の神威に他ならない。
 鏡を懐に収めると、思兼は月神の住まう館へと向かった。





 その頃、月の館に住まう夜の食国の主――月読命《つくよみのみこと》は褥に伏せっていた。
 微睡みを繰り返しては、夢と現《うつつ》を彷徨う。
 闇の主との幻のような一時《ひととき》の後、身も心も未だ囚われたままであった。
 ようやく夢から目覚め、気怠げに身を起こす。
 傍らの鏡に、己の姿が見える。
 美しく透き通った鏡に映るのは、なお美しい容《かんばせ》。
 やや青ざめて、物憂げに見えるが、それさえも美しさを際だたせる。
 見る者を惑わせるその美しさは、女体であるが故にいっそう艶めかしく、蠱惑的でさえあった。
 何より腹立たしいのは、それを視ている己自身が一番にわかるということだ。

「……」

 夜着の上に更に上衣《うわぎぬ》を纏い、変化《へんげ》した身体を隠す。
 月の満ち欠けとともに、身の内に陽の神気が満ちれば男体となり、陰の神気が満ちれば女体となることで、この中つ貴神《うずみこ》は強大すぎる神威の均衡を保っていたのだ。
 今は十日あまりの月。
 本来ならば男神の姿となるはずだった。
 それなのに、今、月神の身体は女神の形をとっていた。
 月が満ちても、戻らない。
 神威も神気も不安定だ。
 この身体は、どうなってしまったのか。

「交合いのせいか……」

 そこでふと、思いつく。
 こんなことは、前にもあった。
 遙か昔、神代の折りの忌まわしい記憶が甦る。
 愚かな自分は騙され、陽の神気を奪われた。
 それ故に、神威を操れず、神去りかけた。

「……」

 あの時は、救け手がいた。
 だが、今はいない。
 いても、再び助けを求めたいとも思わぬ。
 今回は、陽の神気を奪われたわけではない。
 だとすれば、陰の神気を受け入れすぎたのだろう。
 身の内の陰陽の神気の均衡が取れず、このように女体のままなのだろうと結論づける。
 ならば、月が満ちるように待てばいい。
 この身に、陽の神気が満ちるまで。
 朔《さく》の日が過ぎるまでには元に戻ることを願いながら、鏡に映る己の姿から目を逸らす。
 物思いから抜け出し、不意に部屋の扉の向こうから、天津神の気配がするのに気づいた。

「思兼か……」

 褥の上で、もう一度居住まいを正す。
 髪を結う暇はない。
 心を落ち着けるため、月神は大きく息をついた。





 思兼の心情は、落ち着かなかった。
 初めて夜の食国での、月神との対面。
 いつも見知っていたはずの月神が、今宵はやけに違って見えるのは、ここが高天原ではないせいなのだろうか。
 褥の上にゆるりと座り込む月神は、常になく儚げであった。
 太陽の女神といい、月の男神といい、これほど神々を惹きつける存在もあるまい。
 美しさもさることながら、その存在そのものが、命《みこと》が、神々を傅《かしず》かせるに相応しいものだった。

「何用だ、思兼」

 声音もいつもより柔らかい。

「お休みのところ申し訳御座いません。根の堅州国に降りられてから、音沙汰が御座いませんでしたので、急ぎ参りました」

「失敗したと思うたか」

「いいえ。天照様が心配なさってお出ででしたので」

「姉上が――?」

 思兼の言霊に心が揺らいだが、すぐに思い返す。
 心配だったのは、自分ではなく、自分が期待通りに動けたかどうかなのだろう。
 遙か昔、期待に応えられなかった時の、あの冷たい眼差しを今も覚えている。

「根の堅州国にて、母上様の黄泉返りの内に入り込んだ際、ある呪をかけておいた。上手くいけば、程なく母上様は黄泉国へと返ることになろう」

「さすがは月読様。して、その呪とは――?」

「刻《とき》が到ればわかる。用が済んだなら疾く去れ」

 思兼は肩を竦め静かに咲った。

「月神の言霊を信じて退散致します。神々が目覚め、過世《すぎしよ》と現世《うつしよ》が重なった今、世界は再び新たな神代を迎えるでしょう。豊葦原は、天津神々の領域となり、黄泉神の介入も国津神の支配も許さぬ――これが、天の主たる天照様と高天原の総意です。月読様もお忘れなきよう」

「我には関わりないこと」

「では、もう黄泉大神とはお会いなさるな。黄泉神の動きを探る必要は、もう御座いませぬ」

 その言霊に、月神の容《かんばせ》が怒りを露わにする。

「――私を、見張っていたのか」

「闇と夜、どれほど近かろうとも、貴方様方は決して相容れぬのです。それを、はき違えてはなりませぬ」

「そなたにいわれる筋合いなど――っ」

 声を荒げた月神の身体が、途中でゆらりと傾いだ。
 驚いた思兼が咄嗟に駆け寄り、倒れかかる月神の腕を掴んだ。

「――!!」

 その腕は、思っていたよりもずっと華奢で、柔らかかった。
 今は髻《みづら》に結い上げていない長い髪が頬にかかって、まるで女神のように艶めかしい。
 月神は、このような艶めかしい方だったかと思兼は訝しむ。
 太陽の女神よりは控えめで中性的ではあったが、ここまで蠱惑的ではなかったような気がする。

 こんなにも、触れて確かめてみたいと思うほどには。

「――」

 我知らず、思兼は手を伸ばしていた。
 絹糸のような髪に触れる。

「思兼――?」

 訝しげに自分を見やる月神は、もはや女神にしか見えなかった。
 髪に隠されていた滑らかな頬に触れる。
 その感触に、指先に甘い痺れが走る。

「やめよ、思兼!」

 身体を引く月神に、更に腕を伸ばす。
 だが。

「放せ!!」

 月神の放った神威が、思兼を遮った。

「!?」

 不意に現れた闇が、思兼の手足に絡みつき、瞬く間に身体を覆い隠し自由を奪う。

「な!?」

 突然のことに、思兼が神威を放つ。
 しかし、形を持たぬ闇には効かなかった。
 月神がこのように闇を操るとは思いもよらなかった。
 夜の領域では、全てが月読命《つくよみのみこと》の思うがままとなる。
 抵抗を諦め、思兼は月読を見つめた。
 自分を縛っている闇同様、月読の身体もまた、闇に包まれていた。
 だが、その闇は月神を護るように優しく身体を支えていた。

「月読様」

 青ざめていた頬に、うっすらと血の気が戻っている。
 闇に浮かぶ月のように、闇に抱かれた月読は遠くに感じられた。
 怒りを隠さぬ様がまた麗しかったが、先程のように触れてはならぬと自重する。

「我は三貴神の中つ御子。そなたが気安く触れてよいことがあろうか」

 声音さえも、心ざわめかせる。
 その姿をそれ以上見ぬよう、思兼は視線を外した。
 見てしまえば、我を忘れてまた手を伸ばしてしまうだろう。
 それほどに、今の月神は麗しすぎる。
 太陽の女神でさえ、これほど容易く心を絡め取ることはしない。

「失礼致しました。夜の御方様」

 心の内の動揺を押し隠すよう、敢えて素っ気なく言霊を継ぐ。
 闇の束縛が不意に外れ、自由になる。
 だが、闇は依然として月神を護り、すでに思兼は近づけない。

「無礼者め。疾く去れ」

 怒りを隠さず、睨みつける様さえ心を波立たせる。
 これが、三貴神の中つ御子の神威なのか。

 この領域では、心すら容易く惑わされてしまう。

 そう悟り、思兼は静かに退いた。
 常になく心乱され、平静を保つのが難しかった。
 夜の食国を出、急ぎ高天原へと帰還する。
 だが、その懐に収めていた神器が、失われていることには暫し気づかなかった。






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