高天原異聞 ~女神の言伝~

 美咲がカウンターで貸出業務をしながら久久能智《くくのち》と石楠《いわくす》と過ごしていると、慎也が授業を終えてやってきた。
 すでに心得ている二柱の神は、慎也が近づくのと同時に、返却本を持ってその場を去る。

「おかえりなさい」

「ただいま。これ、返却するね。で、こっちが借りる方」

 美咲はまず返却本を受け取り、手続きをする。
 それから、借りる方の手続きを終える。

「はい、いいわよ」

 本を渡すために顔を上げた美咲に、慎也が身を乗り出してキスをする。
 完全に不意打ちだった。

「ちょっと、何するの、こんなところで!?」

 慌ててカウンターの影に身を隠す美咲を、慎也は身を乗り出して覗き込む。

「だって、隠れてしてもどうせバレバレなんだし」

「そう言う問題じゃない!」

「でも、いつも確かめていたいんだ。美咲さんが、此処にいるって」

 その声音にいつものような明るさが感じられず、美咲は顔を上げて慎也を真正面から見上げる。

「離れてるといつも不安になる。もしかしたら、もう逢えなくなるんじゃないかって。だから、一緒にいるといつも確かめたくなる。俺がおかしいのかな。美咲さんだけ見ていたい。美咲さんとだけ話したい。美咲さんの声だけ、聴いていたい。美咲さんにだけ、いつでも触れたい。ホントは、それだけでいいんだ」

 美咲は、手を伸ばし、カウンターに置かれている慎也の手に重ねる。

「私、どこにも行かないわ。ずっと慎也くんと一緒にいるの」

「うん。わかってる。でも、いつだってふとした拍子に怖くなる。これが伊邪那岐の記憶なのかな。こんなに傍にいられて幸せなのに、同じだけ不安になるのは」

「いつもそうなの?」

「うん、ここ最近は、特に」

 自分一人が不安なのだと思っていた。
 だが、慎也も同じだったのだ。
 全く記憶のない慎也が感じる不安は、理由を知っている自分の不安とは違う。
 理解できない分、不安は募っているはずだ。
 美咲は、徐にカウンターを出ると、慎也の手を引いて建速の傍へ向かう。
 建速は読みかけていた本から顔を上げて、二人が近づくのを見ていた。

「建速、八尋殿《やひろどの》には、今も行ける?」

「二人なら、いつでも」

「じゃあ、しばらくここお願い」

「承知した」

 慎也の腕を掴んだまま、美咲は真っ直ぐ図書館の中央の柱へ向かう。

「美咲さん?」

「黙ってついてきて」

 相変わらず、美咲の目にはこの柱が淡い光で輝いて見える。
 その木肌に、そっと触れる。
 そのまま慎也を見上げると、戸惑いながらも慎也も柱に触れた。
 同時に、木肌の感触がなくなる。
 視界が淡く光って、次の瞬間には二人は八尋殿の中にいた。

「――」

 入ってから緊張する。
 この前はここに入った途端、神鳴りがして倒れたのだ。
 だが、今回は神鳴りはせず、ただ静けさだけが伝わるばかりだ。

「ここに入れるって事は、やっぱり記憶がなくても、俺達伊邪那岐と伊邪那美なんだ――」

 他人事のように呟かれる言葉に、美咲は大きく深呼吸してから慎也を振り返る。

「座って」

「え?」

「そこに座って」

 板の間はさすがに痛いだろうから褥を指さすと、慎也は一度ちらりとそちらを見てから、美咲を見返す。

「正座?」

「……ちゃんと話をしたいだけよ。お説教するんじゃないから、楽に座って」

 美咲のその言葉に、慎也は片膝を立てて座った。
 美咲も慎也の正面になるように座り込む。
 何を言われるのかといった様子で慎也は美咲を見つめている。
 美咲は一回深呼吸をしてから、口を開いた。

「私、記憶なんかなくていいって言ったよね」

「うん」

「もう一度言う。記憶なんかなくてもいいの。なくたって、きっと私あなたを好きになったから」

「――」

 突然の美咲の告白に、慎也は驚いたように美咲を見据える。

「今の慎也くんが好きよ。忘れないで。私が伊邪那美だから、それだけであなたを好きなんじゃないの。記憶の断片はあるけど、私は私にしかなれない。伊邪那美には、どう頑張ったってなれないの。共感できるのは、懐かしさと、伊邪那岐と国津神が大好きだったって事だけ。伊邪那美の記憶のない私が、伊邪那岐の記憶のない慎也くんを好きになったの」

「――」

「大体、記憶があったら、好きになる前に怒ってるわ。何で黄泉国で置いていったのって。迎えに来ておいて先に帰るってひどいじゃない。なのに今度はこんなところまで追いかけてきて、訳わかんない。ちゃんと理由を説明してよ。だからいつまでも引きずるんじゃない。そんな記憶ない慎也くんは幸せよ。私はいつまでも恨みがましく根に持ってるのに」

 まくし立てる美咲に呆気にとられていた慎也は、美咲の言葉が終わっても暫し黙っていたが、徐に笑い出す。

「何でそこで笑うかな。私は真剣なのに」

「――いや、俺もそう思ってた。伊邪那岐の行動がわかんないから。ホントに俺か、っていっつも不思議に思う。俺と伊邪那岐の共通点って、伊邪那美の美咲さんをすごく好きだって事だけだし。それ以外、正直理解できない。美咲さんから見ても俺と伊邪那岐って、そんなに違う?」

「全然違うわ。私も、伊邪那美とは全然違う」

 顔を見合わせて、二人は笑った。
 こんな風に、自分達の前世について話すことなど全くと言っていいほどなかった。
 色々なことが起こりすぎて、流されるように受け止めてきたが、本当は、ただ、こんな風に一緒にいられればそれでいいのだ。
 それが許されない状況であるだけに、今のこの時間は、自分達にとって、とても貴重なものだった。

「今の俺の、どこを好きになってくれたの」

 問いかける慎也に、美咲は一瞬考える。

「本が好きなところ。一緒に本の話をするのが好き。声も好き。美咲さんって呼んでくれるの、いつも嬉しいの。ずっと聞いていたいなあって思う。作ったご飯を、好き嫌いしないでいつも美味しそうに食べてくれるところも好き。ご飯の食べ方も綺麗だから好き。何にも言わなくても後片づけやお掃除を手伝ってくれるところも好き。甘えたがりだけど、いざというとき頼りになる優しいところもすごく好――」

 最後の言葉を遮るように引き寄せられて抱きしめられる。

「慎也くん?」

 返事はない。
 ただ美咲を抱きしめたまま、慎也は動かない。
 美咲は答えない慎也の背中に腕を回し、自分も慎也を抱きしめる。

「こうやって抱きしめてくれるのも好きよ。安心できるの。ここが、自分の居場所なんだなって思える。人前と職場では、正直控えて欲しいんだけど」

「――俺も、美咲さんが大好きだ。楽しそうに仕事してるとこ、誰も見てないのに手を抜かないとこ、貸し出しする時に、一般の利用者に必ず声かけてるとこ、美味しいご飯つくってくれるとこ、お茶の入れ方も上手なとこ。歩き方も好きだな、本を書架に返しに行く時に足音立てないように気を付けて歩いてるとこ。着てる服も好き。スカートがいいな。美咲さんの声も好き。俺も、慎也くんって呼んでもらうの、すごく嬉しい。美咲さんの俺だけに見せる顔も好き。困った顔も、笑った顔も、恥ずかしがってる顔も、怒ってる顔も、全部。美咲さんに触れるのも好きだ。どこ触っても柔らかくてあったかい」

「ね? 記憶なんかなくても、私達、どこにいても、何度出逢っても、お互いを好きになるわ。だから、忘れないで。私も、忘れないから」

 慎也が答える代わりにぎゅっと美咲を抱きしめて、それから身体を離す。
 その表情は、美咲が大好きな、いつもの慎也のものだ。
 愛しさを隠さずに笑いかけてくれる慎也を、美咲は改めて好きだと思う。
 だから、自分も笑い返した。

「俺、今が一番幸せ。美咲さんとずっと一緒にいられるから」

「ずっとずっと、一緒にいてね」

「うん」

 何度も言葉で確かめる。
 それが、本当になるように。





 八尋殿から出ると、建速が近くの椅子から立ち上がり、傍に来た。

「話はすんだか」

 その言霊に、美咲は驚く。

「八尋殿で、何をしてたかまでわかるの?」

「視えはしないが、予想はつく。美咲が自分から入っていくなら、話をするしかないだろう。慎也が連れ込んだなら話だけではすまんだろうが」

「――」

 美咲は何だかいたたまれない気分だったが、敢えて考えないようにした。

「もう閉館時間だ。帰るぞ」

「ええ――」

 建速が美咲の背に触れた途端、その手から、別の何かが――切実な想いが流れ込んできた。

「美咲?」

 異変を感じ取った建速の訝しげな問いかけに、美咲は答えることができなかった。
 流れ込んでくる想いに、美咲は流されるままにさらわれた。






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