高天原異聞 ~女神の言伝~

 微睡んでいた太陽の女神が、不意に目を覚ました。
 自分に連なる者が、喪われたことを感じ取ったのだ。

「瓊瓊杵《ににぎ》……」

 美しい唇から、天孫の日嗣《ひつぎ》の名が漏れた。
 水盤を視なくてもわかる。
 瓊瓊杵命《ににぎのみこと》が豊葦原から神去ったのだ。
 大切だった者がまた独り、いなくなった。
 心の何処かが欠けたような、虚ろな物思いに女神は囚われる。

 往かせるのではなかった。
 豊葦原になど。

 彼処《あそこ》に往けば、誰も戻ってこない。
 誰も彼もが自分を置いていく。
 此処に自分を独り残し、二度と戻ろうなどと思わなくなる。
 そんな豊葦原が厭わしかった。
 それほどに愛するに値する何が、豊葦原に在るというのだ。
 ただ殺し合い、奪い合うだけの愚かな青人草を愛おしむなど、愚かなことだと何故気づかぬのだ。

 不意に沸き上がる怒り。
 その怒りに束の間我を忘れたその時。

「!?」

 太陽の女神はその美しい容を上げた。
 懐かしい気配がする。
 この神気は――

「宇受売《うずめ》――」

 太陽の女神は、呟くなり大広間を駆け、扉を開け放つ。
 そのまま、女神は空を見据えた。
 美しく広がる夜空の下、煌めく軌跡を振りまきながら、降りてくる。
 前庭に降り立ったのは、美しい女神だった。
 高く結い上げた髪を留めずに下ろし、巫女装束に身を包んだ、高天原最強の巫女神。
 懐かしいその姿は、唯一、見慣れぬ虹色に輝く比礼を身に纏っていた。

「宇受売!!」

 太陽の女神が巫女神に駆け寄り、抱きしめる。

「天照様……」

「よう戻った――」

 太陽の女神が身体を離すと、涙に潤んだ美しい瞳が自分を見つめていた。
 その容を見て、太陽の女神の唇が哀しげな笑みを刻む。

「何も変わらぬ。宇受売、もう私から離れてはならぬ。瓊瓊杵のように神去ってはならぬ」

「ご存じでしたか――」

「わからぬはずがない。私に連なる者であるのに」

 天之宇受売がその場に跪く。

「宇受売――」

「日嗣の御子様の最期の言伝をお伝えすべく、戻って参りました」

「瓊瓊杵が――して、何と」

 巫女神が天孫の日嗣の最後の言霊を太陽の女神に伝えた。

「幸せであったと。日嗣としてではなく、人として、幸せであったとそう言ったのか。故にこの豊葦原で消えては現れる名もなき青人草となると――愚かな――何という愚かな……」

 太陽の女神は静かに涙を流した。

 高天原にとて、空はある。
 雲も、山も、川も、美しい木々も花も。
 それなのに。

「天照様……」

 跪く宇受売もまた泣いた。
 失われた約束を思って。
 果たされなかった誓約を思って。

 二柱の女神の涙が乾く頃。

「取り戻さねばならぬ」

 太陽の女神の言霊が静かに洩れた。

「天照様――」

 宇受売の言霊も最早、太陽の女神には届いていないようだった。
 怒りに満ちた眼差しで空を見据え、高天原の主、太陽の女神は誓約のように言霊を告げた。

「豊葦原は、黄泉の領界ではない。私が瓊瓊杵に与えたもの。瓊瓊杵以外の誰にも、渡さぬ」






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