高天原異聞 ~女神の言伝~
 図書準備室にあるソファで新聞を読み続けていた建速は、近づいてくる神気に気づいて容を上げた。

「建速様」

「葺根」

 新聞を畳む乾いた音が、静かな室内に響く。
 葺根は図書準備室と館内を繋ぐ扉の前で止まった。

「国津神達はどうした」

「校内でそれぞれに休んでおります」

「八塚は」

「理事長室に。そこで休むそうです」

「そうか。そなたも休むがいい。八塚を頼むぞ」

「お任せ下さい。それでは」

 一礼して、葺根が去っていく。
 その神気が静かに遠ざかっていくのを確かめてから、建速は徐に立ち上がった。
 そして、自身も準備室から館内へと入り、静かに一般の来客用の玄関から外へ出る。
 結界の内にある図書館と高校、そしてその敷地内はひっそりと静まりかえっていた。

 夜明けまでは、まだ時がいる。

 鈍く光る外灯が以前と何ら変わらぬ景色を浮かび上がらせている様は、つい数時間前の八島士奴美との戦いを、まるで幻のように感じさせる。
 瓊瓊杵命は、全ての闇は打ち払えなかったと言った。
 だとすれば、黄泉国の干渉はこれからも続く。
 死の神威に何処まで抗えるかは、正直、荒ぶる神にもわからなかった。
 だが、創世の神である伊邪那岐と伊邪那美は、何としても護らねばならない。
 今、二柱の神が在る、この時こそを、待っていたのだ。
 ただ無為に過ごしてきた時間の流れを思えば、今が一番、満ち足りているのだろう。

「――」

 見上げれば、夜空の星が無数に瞬いている。
 しかし、そこに月はない。
 月読命《つくよみのみこと》は根の堅州国で会って以来、姿を顕さない。
 豊葦原で視る月は、満ちていてもいつも寂しげだった。
 月神は夜の食国に神逐《かむやら》いされ、未だ独りなのだろうか。
 早く、己の対を見出せばよいものを、頑なに太陽に固執する。
 月は月。
 太陽には決してなれぬ。

「憐れだな、月読」

 かつておなじ言霊を呟いたと、荒ぶる神は思い出した。
 だが、それもまた過ぎ去りし神代でのこと。
 大切なのは、過去ではない。
 今と、これからなのだ。

 天命に従って、己の望みを叶えねばならない。

 その時。
 荒ぶる神は気づいた。
 天津神の気配に。
 否――これは。

 荒ぶる神と国津神の結界をいとも容易く越え、その場に顕れたのは――

「夜に顕れるなど、お前らしくないな」

 闇がこれほど似合わぬ女神も在るまい。

 美しき太陽の女神に、荒ぶる神はそう言った。





 視る者を慄《おのの》かせるその美貌。
 そして、今、その容《かんばせ》は、静かな怒りを湛えていた。

「瓊瓊杵を護らなかったのか――」

「――そうだな。護れなかった」

 護りたいと思った者は、いつも自分を通り過ぎて往った。
 それを哀しむには、遅すぎる。
 そして、何よりも優先して護らねばならぬ者が在る今、荒ぶる神には感傷に浸っている暇すらないのだ。

「すでに神去った者達だった。理に従い、黄泉国へ返った。一目まみえただけでもよしとせよ。もとより、今生ではまみえぬはずであったのだ」

「今更、私に理を説くのか? そなたが? かつて神代で、全ての理を覆したくせに」

「天照――」

「理を、口にするな。建速。そなたは、それを口にするに相応しくない。理に従うというのならば、今こそ高天原に帰順せよ。豊葦原を天津神に返すのだ」

「豊葦原は、天津神のものではない」

「そなたのものでもない!!」

 強い言霊が、大気を震わせる。
 太陽の女神の怒りが、神威となって地をも揺らす。

「天照――怒りを静めろ。お前らしくない」

「私の何がわかる。すでに神代での私ではない。脅え、無力だった頃の私はもういない」

「俺にはわかる。どんなに時が過ぎようとも、俺には、お前は初めて現象したあの時のままだ」

 天照の手が建速に向かって大きく振りかぶられる。

「何もかも捨てて豊葦原に降ったくせに、今更戯言を言うでない!」

 細く美しいその手を掴み、建速は天照を引き寄せる。

「捨てたつもりはない」

 その静かな言霊に、天照は掴まれていた腕を振りほどく。

「そなたの言霊は、偽りばかりじゃ! かつても、今も」

「天照――」

「そなたを許さぬ。これ以上何一つとて、奪わせはしない」

 天照が後ろへ引いたその時。

「建速!!」

 呼ばれて、建速が視線を向ける。
 天照は、その声音に振り返る。

「美咲――」

 二柱の神の目合《まぐわ》いを遮ったのは、創世の神の片割れ――太古の女神の現身《うつしみ》だった。








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