高天原異聞 ~女神の言伝~
 長く暗い、道往きであった。
 繋いだ手は、自分と同じくらい華奢で頼りない。
 それでも、この闇の中では唯一確かなものだ。

――母上様、此処は何故このように暗いのですか?

――怖いのですか、比売神?

――はい。何も視えませぬ。闇ばかりが続いて、太陽の光が恋しゅうございます。

――それを求めて、私達はこうして歩き続けているのです。

――この暗闇が終わる時、私達は豊葦原に戻れるのですか。

――そうよ。視て、比売神。あの炎を。

――ああ。美しい、白い炎が視えます。そして、血のように赤い炎も。どこか懐かしい光です。彼方に向かえばよろしいのですか。

――いいえ。駄目。どんなに懐かしく恋しくとも、今はあの炎から逃れなければならぬのです。

――何故ですか、母上様。

――あれは闇に属するもの。死に近きもの。彼処に近づけば、黄泉国へ戻ることとなる。比売神、私を信じて。今は私達だけで、此処を離れねばならぬのです。そうでなければ、私達の愛しい背の君には逢えない。

――わかりました。母上様。母上様が一緒なら、私も何処までもついて参ります。

 そうして、永い永い暗闇の中を、歩いた。
 炎が遠ざかり、やがて、太陽の光が視えるまで。
 愛しい者に出逢えることだけを信じて。




 今もまだ、自分はあの暗闇の中にいるのか――一瞬そう錯覚した。
 しかし、今自分は女神ではなく人間だ。
 傍らには、慎也がいてくれる。
 背中に感じる手の温もりが確かな安心感を与えてくれる。
 これは、ただの夜。
 怖いことなど何もない。
 もう一度目を閉じようとして、美咲は壁に掛かった時計に目をやった。
 淡い蛍光塗料の数字と針が見える。
 そして、違和感に襲われた。
 何かがおかしい。
 目を凝らして、もう一度時計の時刻を確かめる。
 美咲は、その違和感に気づいた。

「朝が、来ない――」





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