高天原異聞 ~女神の言伝~
 和気藹々と昼食を終え、美咲達はまた図書館へと戻る。
 大掃除は終わり、静かな館内には、たくさんの国津神達が集い、読書を楽しんでいる。

「おかえりなさいませ、母上様」

 カウンター近くに座っていた大山津見命が立ち上がって美咲達を出迎える。

「大山津見様。もう昼食は召し上がりました?」

「はい。老いた身体には過ぎるほどいただきました」

 大山津見が閉じた本は、山に関するエッセイ集だった。
 山の神らしい選択だ。
 ただ、いつも朗らかだった斉藤という憑坐が、今は力無く見えた。
 無理もないかもしれない。
 憑坐である斉藤に降りている大山津見命は、愛しい娘を喪ったのだから。

「大山津見様、少し、お話しできますか」

「はい、母上様。よろこんで」

 美咲は、斉藤が先程まで座っていた席の隣に座る。
 慎也は美咲の隣に、建速や八塚、葺根、石楠、久久能智はその近くに座った。

「謝りたかったんです。咲耶比売と、姉比売のこと」

「何故謝られるのですか? 娘を救って下さった母上様に感謝こそすれ、謝られることはございません」

「大山津見様――」

「今生では、もう会えぬと思っていた娘と再び出会い、哀しみに囚われたもう一人の娘は解き放たれました。これも全て母上様のおかげでございます」

 誰も責めないことに、美咲は心苦しくも思うのだ。
 自分のために、神々が犠牲を強いられているような気がして。
 勿論、彼ら神々が、そんなことを微塵も思っていないのは、理解している。
 だが、こんな所に閉じ込められていつ来るともわからない朝を待たせることを申し訳なく思ってしまうのだ。
 本来ならば、こんなことになる筈など無かったのに。

「母上様、申し訳なくお思いになるのことはございません。我々国津神は、もとより今生では、在るはずのないものなのです。神代が終わり、高天原と豊葦原、天と地の領界が分かたれた時、国津神もまた、本来消え逝く定めでございました」

「え? それは一体――?」

「神々の領界が豊葦原と分かたれし時、豊葦原は神々の領界ではなく、転生を繰り返し只人と成り果てた青人草のものとなりました。青人草は、代を重ねる事に我ら神々から離れると同時に、我々神々の存在を忘れ去っていったのです。
 今生の豊葦原をご覧下さい。青人草は誰も、我々国津神を信じませぬ。口伝えも途絶え、我らは辛うじてその名を留めるのみでございます。我々神々は、青人草の信じる心がなければ消え去るしかない儚い存在なのです」

「忘れることで、神々を殺すの……?」

「左様でございます。本来ならば、そのまま消え去るのみであった我々国津神々を救ったのは、他ならぬ荒ぶる神でございます」

「建速が?」

 思わず美咲は建速に視線を向ける。

「建速様は、我々を神域に封じることで、今生まで生きながらえさせて下さったのです」

「神域って――まさか、神社?」

「はい。この豊葦原に在る全ての神社は、神を封じた神域でございます」

「――」

「永い時の流れの中で、豊葦原は、我々神々にとっては外つ国のように様変わり致しました。我らは封じられ、祀られることで、この豊葦原に辛うじて留まることが出来ましたが、青人草は我らを忘れ、新たな神々を迎えたにもかかわらず、どの神をも受け入れぬ地となりました」

「神々の存在を迎えながらも受け入れない地――」

 信仰から引き離された国。
 長い歴史の中で、神を信じるのをやめた国。
 あらゆるものに神が宿ることを認めながら、決して受け入れない国。
 それが、今の豊葦原の姿だった。
 確かに、美咲も今こうしている現状だからこそ、神々の存在を信じるが、それ以前の自分なら、決して信じなかっただろう。
 生活の中に風習や慣習として残ったからこそ、神社への参拝や結婚式、葬式などに神事や仏事の名残を留めているが、それは信仰心から行っていることではない。
 だからこそ、ハロウィンのイベントをしながらクリスマスに騒ぎ、節分の豆まきをし、子どもの日や端午の節句を祝い、七夕に願をかける。
 あらゆる祭りを楽しむのに、そこに、神を敬う心など無かった。
 それが、忘れられた神々の末路だったのだ。

「――美咲さん、泣いてる?」

 隣の慎也が、慌てて美咲の顔を覗き込む。

「――」

 心が痛んだ。
 こんなにも愛おしく思う神々が、その昔、ありとあらゆる場所に、確かに存在したのに、今はもう誰も憶えていないのだ。

「母上様、泣かないで下さいませ」

 久久能智と石楠が慌てて近寄る。

「我々のことで心を痛めないで下さいませ。消え逝く定めであろうとも、我々には悔いはありませぬ。我らには母上様と父上様が産み出した全てが愛おしいもの。豊葦原は、何時でも、何処でも、ただ、其処に在るだけで愛おしいのです」

「みんなから忘れられても? このまま、朝が来なくても?」

 その問いに、久久能智が咲って答える。

「我々が忘れ去られることは、もうございませぬ。言霊が力を無くしても言の葉が残ったように、神々の名残は、確かに豊葦原に留まり、根付き、すでに分かちがたいものとなったのです。神々を忘れても、神々が在ったことを、青人草が忘れることはありますまい。我々はそれだけでよいのです」

「それに、夜の美しさを教えてくださったのは母上様です」

 続きを石楠が引き受ける。

「闇に煌めく星影、皓々と照る月下の豊葦原を眺める喜びはまた格別にございます」

「左様にございます。太陽の光の下で鮮やかな色を見せる木々や花々は、闇を纏うと色を無くしますが、月明かりに滲むその姿は、闇に在ってもその姿を消すことなく、密やかに息づいております。その静けさを、我らは愛しむのです」

 大山津見命の言霊に、周りで聞いていた国津神達が頷く。
 その時、美咲の心の中に、何か、別の心が感じられた。
 起きているのに、夢を見ているように、眼前に別の風景が広がる。

――この静けさを、我は愛おしむ。

――私もだ。我々は似たもの同士だな。

 眼前に広がる穏やかな湖水。
 言霊は少なくとも、並び、ともに座し、同じものを視ているだけでよかった。
 この暗闇の中、この時が、永遠に続けばいい。

 入り込む、別の光景。

 突如、機織り小屋に響いた破壊音。
 見上げれば、屋根の一部が壊され、雨風が内に入り込んでいた。
 其処に在るのは、金と赤の美しい斑。

――ああ。今宵、私は死ぬのだわ。『死』が、私を掴まえる。

 諦めと同時に、どこか甘美な喜びが心の内に沸き上がる。

 入り込む、別の光景。

 灯りのない部屋から漏れる、乱れた息遣い。

――もっと……もっとだ。

――気の済むまで。

 絡み合う二柱の神々の姿を、陰から視つめる。
 裏切りを目の当たりにし、嫉妬と失望が心を歪ませる。

 入り込む、別の光景。

 何も視えない。
 感じるのは、のしかかる柔らかな重み。
 動かぬ身体に触れる優しい手。

――愛しい方……この日を待ち焦がれておりました。

――やめよ……触れるな……姉上、姉上……!!

 これは、誰の記憶?
 誰の夢?

 目の前が暗くなる。
 力が、抜けていく。

「美咲さん!?」

 慎也の腕の中に倒れ込みながら、美咲の意識は途絶えた。




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