高天原異聞 ~女神の言伝~

「国津神々よ、死の神威を押し止めよ!!」

 荒ぶる神の言霊に、国津神々の神威が呼応する。
 荒ぶる神と国津神々の神威が、眩い光となって死の神威へと放たれる。

「建速様、我々には神威の源が感じられませぬ!!」

「我の神威に続け!! 黄泉比良坂を越えさせるな!!」

 死の領域から溢れた黄泉の源泉が、狭間の領域――かつての根の堅州国の在った領域をすでに満たしていた。
 大国主、須勢理比売、木之花知流比売、八島士奴美、そして、木之花咲耶比売と瓊瓊杵命が立て続けに神去ったことによって、死の神威が黄泉国を越えるほどに増大した。
 そして、今また伊邪那美の現身《うつしみ》である美咲が死んだ。
 それは生と死の神威の均衡を覆し、豊葦原を黄泉国に塗り替えるほどの喪失だった。

 死が強すぎる。

 黄泉の源泉が、根の堅州国の領界を満たした今、豊葦原をも呑み込むのは時間の問題だ。
 根の堅州国に長い間留まった荒ぶる神だからこそ感じ取れる感覚だった。
 さらに大きく、地が揺れた。

「!!」

 あまりの揺れの大きさに、国津神々が膝をつく。
 凄まじい振動と横揺れに、足場が覚束ない。

「父上様!!」

 久久能智と石楠がついていた慎也が、激しい揺れに目を覚ました。
 ふらつきながら身を起こす。

「動くな、慎也。国津神が護る」

「父上様、ご安心下さい。我々が御護りします」

 激しい揺れの中で、慎也はどこか虚ろなままだった。

「地の門が、開く――」

 その小さな呟きを、荒ぶる神は確かに聞き取った。

「地の門――?」

 それは、かつて伊邪那岐が千曵の岩で塞いだ黄泉国との境であった。
 そして、荒ぶる神は神眼によって視た。
 どす黒く歪んだ混沌が、見る間に境を超え、さらには黄泉比良坂を越え、地を覆っていくのを。
 その後を静かによせてくる黒く輝く水。
 地を覆い、街を覆い、全てを呑み込んでいく――それが、黄泉の源泉だった。

――駄目です――このままでは、豊葦原は黄泉の領界となる

 現世が黄泉の領界と重なり、咲耶比売の神話がさらに鮮明となる。

「こうなることを知っていて、女神の死を待っていたのか、黄泉大神よ――」

――建速様、国津神々よ。豊葦原を御護り下さい

 咲耶比売の神話に続いて、瓊瓊杵命の神話が伝わる。

「建速様!! 我ら国津神の神威では、黄泉の源泉は返せませぬ!!」

 神々の神威が豊葦原に押し寄せてくる混沌と黄泉の源泉を押し止めるも、死の神威を前にそれ以上抗えない。

「食い止めろ。美咲を連れ戻すまで」

 荒ぶる神が振り返る。

「神でない道往きが必要だ。八塚」

 名を呼ばれ、八塚が前に進み出る。

「ここに」

「死人となり、死の領域へ我を導け」

「御意に」

 伸ばされた手に八塚が迷うことなく己の手を伸ばす。

「建速様!!」

 葺根が叫んで、八塚の肩を掴む。

「八塚を殺すのですか」

 久久能智と石楠、大山津見命も、荒ぶる神を視据える。

「八塚殿は只人です。我らと違い、死ねば返りませぬぞ」

「それでもだ。死神では駄目だ。闇の主に気づかれる。死人であれば、時間は稼げる」

「だからといって、何の力もない只人を連れていくわけにも参りませぬ。人でありながら神威を操れる私が最適でしょう」

「八塚!!」

「葺根様、国津神々よ。私のことは御案じなさいませぬよう。むしろ喜んで下さいませ。皆様方と同じく、私にもお役に立つ時が来たのですから」

「八塚。我はそなたを死なせたくない。この憑坐に降りる時、必ずやそなたを護ると誓ったのに。戻れぬと知りながらそれでも往くか」

「参ります。我が命は血族の祖神である建速様のもの。ともに往くのです。何を惜しむことがありましょう」

 八塚は微笑んでいた。
 葺根がそれ以上何も言えずに八塚を抱きしめる。

「俺も行く」

「父上様!!」

 ソファーから立ち上がり、建速の前に進み出る。

「俺は伊邪那岐とは違う。どこまでも、追いかける。美咲さんと約束したんだ」

 慎也が真っ直ぐに建速を見据える。
 建速がその肩に手を置く。

「魂のみで、連れていくことになる。記憶がなくても、お前は神なのだ。闇の主に気づかれてしまう怖れがある。それでは、美咲を見つける前に闇の手に堕ちることにもなり兼ねん。俺と八塚が美咲を視つけて必ず戻ってくる。それまでは待っていろ」

「父上様、ここは建速様と私にお任せ下さい」

 八塚も宥めるように語る。

「――」

「言霊に誓った。俺を信じろ」

「――建速を信じてないんじゃない。俺は、俺が信じられない。美咲さんがいないと、ダメなんだ。おかしくなっていく。俺が俺でなくなっていく――」

 慎也は震えていた。

「美咲を取り戻したいんだろう?」

「取り戻したい。美咲さんがいないと、息も出来ない」

「お前のために、我らのために、美咲は必ず取り戻す」

 揺らがない言霊。
 慎也を視つめるその眼は、慈愛に溢れていた。

「俺が正気を失う前に、戻ってきてくれ――」

 慎也の言葉に、建速は頷く。

「結界を敷く。皆下がれ」

 言われた通り、国津神々と葺根、慎也が館内へ通じる扉まで下がる。

「奏上致す」

 荒ぶる神の言霊とともに、図書準備室の空間から色が消えた。
 眩いばかりの白い空間の中、八塚とともに中央に佇む荒ぶる神と、息絶えたまま横たわる美咲しか存在しない。
 横たえられたままの美咲は、白い空間の中、浮き上がって見える。
 継いで、荒ぶる神の足下から、稲妻が這うように円陣を描く。

「今ここに、死へ至る門を開く。我は理を正すために、母神を現世に返らせる。死人を道往きとして、我を母神の在る闇の領域へ降らせよ。一度(ひとたび)門を開けし後は、我より他に門を開けること能わず」

 荒ぶる神の言霊に応え、円陣を取り囲むように稲妻の壁が結界を包み込んだ。

「八塚。そなたは死人となる」

「御意。この命は荒ぶる神のもの。いかようにもお使いなされませ」

 円陣の中央に立つ八塚の胸に、荒ぶる神は手を置いた。

「鼓動を止めよ」

 その言霊通りに、八塚の心臓が、鼓動を止めた。
 縫い止められたように身体は立ち尽くしたままだが、がくりと頭が傾いだ。

「八塚――」

 結界の外で、葺根が痛ましそうに呟いた。
 荒ぶる神の手が、八塚の胸に沈み込んでいく。

「建速様、お気をつけ下さいませ!」

 葺根の言霊を背中で聞きながら、

「必ず戻る。それまでは、何としてでも黄泉の源泉を押し止めろ」

 荒ぶる神の身体が、八塚の身体の中に呑み込まれ、結界の中から消えていった。



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