高天原異聞 ~女神の言伝~

 黄泉国の大門から歩き続けて、もうどれくらい経ったのか。

 暗闇なのに、ものの姿を隠さない死の領域を、八塚は歩き続けていた。
 現世で死んだ時と同じ服装であるが、腕時計は時を留めたままで時間の経過はわからない。
 ひたすら歩き続けていると、不意に三叉路へ出た。

「これは――」

 どちらに行けばいいのか、八塚にはわからなかった。
 立ち止まり、行き倦ねる。

 一つを選んで進むべきか。
 荒ぶる神を待つべきか。

 だが、右側の路から、突然光が顕れた。
 それは見る見る近づき、神の姿を形取る。
 大きな体躯の、恐ろしげな面をつけた神だった。

「此方ではない。ここは、死神の通り路。神気があろうとも、神ならぬ身のそなたは通られぬ」

 奇妙な面を着けた、この神を、八塚は知っていた。

「貴方様は、道往神(みちゆきがみ)――神田比古(かむたひこ)様ですか」

「そうだが、何故俺を知っている?」

葺根(ふきね)様に伺いました。宇受売(うずめ)様にもよくして頂きました」

「そうか。そなたは荒ぶる神の末裔だな。人の身でありながら神気が視えるのはそのせいか」

 面を上げて八塚をまじまじと視る道往神の容は、凛々しくも美しかった。

「荒ぶる神の末裔にして十種の神宝(とくさのかんだから)を守護する、八塚宗孝と申します。暗闇の回廊に向かうところで路が分かれておりましたのでどちらに向かうか迷っておりました」

「では、暫し道往きをともにしよう。本来ならばこの路は、死人には開かれぬ。そなたの神気を感じ、路が開いたのであろう。俺も、この暗闇の回廊よりもずっと奥におるのだが、路が開き、神気が視えたので来たのだ」

 歩き出す道往神について、八塚も歩き出す。

「それは――ご足労をおかけ致しました」

「よいのだ。それより、そなたに聴きたいことがある」

「私で答えられることであれば」

「宇受売は――天に還ったな?」

 当然のようなその問いに、八塚は躊躇ったものの正直に答える。

「はい。瓊瓊杵様と木之花咲耶比売様が再び神去りし後に――」

「そうか――」

 道往神が咲う。

「良かった。それだけが、心残りだったのだ。有難いことだ」

「宇受売様は、高天原に在るほうが、お幸せなのですか?」

「そうだ。宇受売は天津神なのだ。天津神とは、天に在る者。それを、俺が無理に引き止めてしまった」

 八塚は、葺根の話のみでしか知らぬが、宇受売が高天原に還らず豊葦原に留まり続けたのは、神田比古が黄泉返るのを待っていたのだと聞いていた。
 それ程に想い待ち慮がれた男神と永遠に別れることになったのに、それを、この当の男神は幸せだと思うのか。

「――貴方様と在れれば、地に在っても、宇受売様はお幸せであったはず」

「そうだな。だが、それは移ろう愛なのだ」

「移ろう、愛――?」

「そうだ。豊葦原では、全てが変わり往く。生と死を繰り返しながら。そして国津神は、変わり往くものを愛する。
 だが、天は違う。天は変わらぬ。天津神も同じだ。宇受売に必要なのは変わり往く、移ろう愛ではなく、変わらぬ、移ろわぬ愛だったのだ。俺には、最初からそれを与えることが出来なかった。だからこそ、俺達は、共に在れなかったのだろう」

 神田比古の言霊は、どこまでも真実しかなかった。
 だからこそ、哀しく、胸が痛む。

「――移り往くとも、それでも、傍に在りたいと願うことは、許されぬことなのですか……」

 神田比古が、労るように咲う。

「いいや。そうではない。愛することに、何の咎が在ろうか。
 ただ、それだけでは許されぬことも在るということだ」

「――」

 道往神が不意に腕を上げて先を示した。

「さあ、暗闇の回廊はこの先だ」

 暗闇の回廊は、渦巻く闇のように、八塚には見えた。
 八塚は神田比古を見上げる。

「ありがとうございました。神田比古様」

「気をつけて往け。黄泉返ったなら、荒ぶる神にも礼を伝えてくれ」

「――はい」

 面を着け直し、道往神は戻って往った。

「ここに、母上様が――」

 意を決して進んでいく。
 心なしか、身体がずいぶん軽くなったような気がする。

 これが、暗闇の回廊か。

 様々な思いが闇となって渦巻いているのが見えた。
 死せる神々の想いが、ここに在る。

――寒い……

 この声なき声を、八塚は知っていた。

「母上様!?」

――とても、寒い……

「母上様、お迎えに上がりました! 八塚です!!」

――もう返れない……黄泉のものを口にしてしまったから

 叫んでも、応《いら》えはない。
 これは、美咲の、いつの思いだ。
 それとも、思いの名残なのか。

――どうしてここは、こんなに寒いの

 八塚もまた、言霊のように寒さを感じた。
 心まで冷えていくような、哀しみと絶望とに侵食されていく。

 今、自分は美咲の想いの中にいる――

 押し寄せる寒さに痛みさえ感じる頃、不意に氷を溶かすような温もりに気づいた。

――温かい……

 美咲ではない太古の女神の言霊と同時に、八塚の身体も温もりに包まれる。
 これは、美咲の想いではない。
 死せる神々の想いでもない。
 暗闇の回廊に、このように温かく、泣き出したいほどの幸福感に包まれた想いなどない。
 この想いはどこから来たのだ。
 女神に重なりながら、どこか違う、この想いは――

――なんと温かい……このように、温かい、愛おしい想いを失ってしまったの……?

「母上様……?」

――なんと憐れな、愛おしい神……

「母上様――伊邪那美様!! それは、どなたのことですか?」

 八塚は温もりに包まれながらも、女神の哀しみに為す術はなかった。




 (いら)えがなくとも、八塚は呼びかけ続けた。

「母上様、こことは、どこなのですか!? お教え下さい!! 荒ぶる神とともに、迎えに行きますから!!」

 次の瞬間、八塚の声は、熱に遮られた。

「!?」

 熱が、一瞬だけ暗闇の回廊を駆け抜ける――そんな気配がした。

――許さない……穢らわしい闇が、母上様に触れるなど……

 この思いは、誰のものだ――八塚は混乱した。
 荒ぶる神が護りにと美咲につけた水と風の神威ではない。

――私がお護りします。母上様……

 神々の意志が強すぎる――

 暗闇の回廊の神々の思いに翻弄され、八塚は束の間、我を忘れた。





 美しい女神が、夫に咲いかける。
 それだけで、溢れる想いに胸が詰まる。

 永遠に傍にいられたら。

 その想いだけで、十分だったのに。

 どうして自分達は、ともに在ることが、出来なかったのだろう――

「八塚!!」

 力強い言霊が、自分を喚ぶ。
 それだけで、八塚は自我を取り戻す。
 この神気を、神威を、忘れることはないだろう。
 例え何度生まれ変わっても。
 全てを忘れても。
 出逢えばきっと気づく。
 この神こそが、自分の存在の証なのだから。

「――」

 見上げれば、その容で、言葉にならない想いが込み上げる。

「何を視ていた?」

「――夢の、ようなものだったのかもしれません」

 自分の前世を見る者はそう多くない。
 ましてや神代を垣間見るなど。
 今のは、誰の夢だったのか。
 八島士奴美(やしまじぬみ)か。
 木之花知流比売(このはなさくやひめ)か。
 それとも、創世神である伊邪那岐と伊邪那美か。

「妻を喪った男神の、それとも、夫を喪った女神の、夢の欠片だったのでしょうか」

「俺にはわからん。それよりも、八塚、その姿に気づいているのか」

 見上げていても、いつもより荒ぶる神が遠い。
 先程も身体が軽くなったような気がしていた。
 自分の手を見てみると、指も細く、白く、柔らかい。

「どうやら子供の姿になっているようですね。死んだら、二十歳前後の姿に戻ると聞いたことはありますが、それを通り越して子供の姿とは」

「それがそなたの本質なのだろう」

「私は永遠に子供ですか?」

「無垢だということだ」

 建速が八塚を抱き上げる。

「日狭女様から伺いましたが、母上様は黄泉国には戻られてはおらぬようです。暗闇の回廊を戻る何処かにおられるのではと。暗闇の回廊とは不思議ですね。産まれる前の記憶さえ、見えるのですから」

「何を視ても、それは過ぎし世のことだ」

 荒ぶる神が八塚を肩に抱き上げたまま歩き出す。

「死んで子供に返るというのも悪くないですね。荒ぶる神に抱き上げてもらえるなんて、どんな御利益ですか」

「冗談ではないぞ。そなたを連れて返らねば、葺根や石楠、久久能智、大山津見にまで恨まれる」

「国津神々は、皆お優しいですから。身に余るご恩情に報いる努力は致しましょう。ですが、私は返れぬと承知で来たのです。お気に病まれてはこちらが申し訳ない限りです」

 葺根の言霊通り、いくら神々の末裔で、神威を操れるとはいえ、八塚は人間でしかない。
 死んで返れるとは、もとより思ってはいない。

「私のことはお気になさらぬようにとお伝え下さい。こんなにも長く貴方様とともに在れることを喜んでおりますのに。真に、神々とは慈しみ深く、愛しいばかりです」

「――」

 荒ぶる神の歩みが止まる。

「? どうかなさいましたか?」

「八塚。あまり神を愛し過ぎるな」

「何故ですか?」

「憐れだからだ。神々に思いを寄せても、共には生きられぬ」

「私の母のようにですか?」

 荒ぶる神がこちらを視やる。

「何を視たのだ」

「過ぎし世の、夢の名残を。母の強い願いがなければ、私の生はなかったのだと」

「――」

「ご心配なさらずとも、もとより承知のこと。永遠など、望みません。共に在る、刹那の時を惜しみながら生きるのです。それが私の幸福なのですから」

「――」

 再び歩みを進める荒ぶる神の横顔は、どこか憂いを帯びていた。

「だから、何度お願いしても留まってはくれなかったのですか? 私が神を――貴方様を愛し過ぎて辛くなるからと」

「それもある」

「では、他に何が」

「俺が辛いからだ」

「建速様――」

「そなたを愛しめば、必ず来る別れがいっそう辛くなる。だからそなたを愛したくなかった。それでも、心は神だとて思い通りにはならぬ。青人草とは、真に憐れで、愛おしい」

 唐突に気づいた。
 この姿は、きっと初めて荒ぶる神と出会った十歳の時のものであろうと。
 荒ぶる神の神威によって黄泉返ったが、十歳まで、自分には何の力もなかった。
 十歳の誕生日、初めて、荒ぶる神に会った。
 一目見た時、自分の中の神威に目覚めた。
 この神のために生きて、死ぬのだと悟った。
 半世紀をすでに生きたのに、未だに思いは揺るぎなく己の内に在る。

「――私は、必ず別れが来ても構いません。貴方様と在れるこの時間は私にとってかけがえのないものですから」

 八塚は思わぬ言霊を聞けた喜びで微笑んだ。

「私が死んでも、きっと生まれ変わってお傍に参ります」

「その時、そなたに記憶はない。それが理だからな」

「それでも、私を見つけて下さい。こんなにも愛する思いが、消えるはずがありません。この思いは、魂に刻まれた刻印なのです。我らは神々の末裔。母上様が父上様や国津神を愛しむように、私が神々を愛するのはまさに理なのですから。産声を上げてから息を引き取るその瞬間まで、私は神々を求め、愛してやまぬでしょう」

 夢見るような言葉に、荒ぶる神は稚い幼子となった八塚を視つめる。

「真に青人草とは、希有な(みこと)だ」

 言霊は、永い時を経てきた神に相応しく、重く、厳かに響いた。

「瞬き一つの間に去っていく(かそ)けき命であるのに。我ら神々を憶えてもおらぬのに。
 何と愚かで、憐れで、愛おしい」

「建速様――」

「八塚。そなたはやがて全てを忘れるだろう。何一つ携えては往けぬ。だが、俺が全て憶えている。そなたが産声を上げてから、息を引き取るその時まで、俺はそなたを愛するだろう」

 美しい言霊に、八塚は微笑んだ。




< 387 / 399 >

この作品をシェア

pagetop