高天原異聞 ~女神の言伝~

 美咲が神威を使って跳んだ先には、荒ぶる神と太陽の女神、そしてたくさんの天津神々が在った。
 しかし、其処は人には視えぬ不可思議な空間だった。
 美咲に気づいた荒ぶる神が、視線を向ける。

「美咲、終わったのか」

「ええ。密約は破棄されたわ。もう、意味をなさない。あの方は何処?」

「伊邪那岐は天の門へ送った。天の御柱へ往け。図書館だ」

「母上様」

 荒ぶる神の隣にいた太陽の女神が手を上げると、白い雲の向こうから、美しい天馬が駆け下りてくる。

「お使いなされませ。天の門へと瞬きする間に往けましょう」

 天馬は心得たように足を折り、美咲の前で身を屈めてくれた。
 馬に乗ったことのない美咲だが、躊躇うことなく天馬に跨った。

「ありがとう、天照」

 美咲が微咲むと、女神も咲い返した。
 天馬は身を起こすと、瞬く間に美咲を乗せて駆けていった。
 それを視送っていた太陽の女神は、荒ぶる神の視線に気づき、そちらを視やる。

「何だ、その表情は」

「別に」

 荒ぶる神もまた、珍しく咲っていた。

「嫌な男よ」

「何がだ?」

「そのように、何もかもわかっていながら、わからぬ振りをするところぞ」

 悔しげに美しい容を歪めても、なお一層美しい女神に、荒ぶる神は愛しげに返す。

「本当にわからんのだ。お前は俺をそのように言うが、俺はいつでも本気でお前を愛しいと思っているのだが」

「そのようなことを軽々しく口にするから、信じられぬと言うておる」

 太陽の女神は、荒ぶる神からついと容を逸らす。

「神代で容易く口にしなかった言霊を何故そのように口にする。そのようなことは、本当に大切な時だけ語ればよかろう」

「では、今がその時だ」

「――そなた、私の言ったことがわかっておらぬな」

「では、もう言霊で語るのはやめにしよう」

 荒ぶる神は言うなり太陽の女神を抱き寄せた。

「全く、そなたは――」

 女神は眉根を寄せたが、抗いはしなかった。





 美しい天馬は、瞬く間に空間を駆け抜け、太陽の女神の言霊通り美咲を図書館へと運んでくれた。

「ありがとう」

 天馬は嬉しそうに首を振ると、一礼して、空を駆け上っていった。
 そのまま、高天原へ戻るのだろう。
 美咲は、一般の来館者用の玄関から館内に入る。
 八尋殿に続く天の御柱の前に立っている、慎也の姿が視える。
 けれど、それは慎也ではなかった。
 美しい神気が揺らめく、その身体には、創世の神が宿っていた。

「伊邪那岐!!」

 押さえつけていた想いを、美咲は解放した。

 美咲の身体から、神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 この時を、伊邪那美は待っていたのだ。
 永い永い時の中、ただひたすら、愛しい男と真向かう時だけを。

――私を、二度も置き去りになさるのですか。

 神格化することによって美咲という人格を上回った伊邪那美が同様の夫伊邪那岐に語りかける。
 全てから解放され、伊邪那美は浄化される。
 今この終りの一時を、彼女はどうしても伝えたい言霊とともに、美咲の中に眠っていたのだ。

――何故私が、黄泉から豊葦原へ戻ったとお思いですか?

――……

――貴方に、逢いたかったからですわ。
  ただ、もう一度、貴方に、逢いたかったのです。それ故に、我が子の命まで奪い、神々の世に終焉を齎したのです。

 それは、女神が内に秘めていた、夫への最後の言伝だった。

――もはや、現世ですべきことはございません。それでも、少しでも永く、共に在りとうございました。貴方をとても、愛しておりましたから。

 その美しい言霊に、男神は静かに涙を零した。

――我が愛しておらぬと――? もはやそなたへの心は消えたと、そう思うたか。

 男神もまた、最後の言伝を女神に伝えた。

――そなたが我を思うと同じに、我もまた、そなたを愛おしんでおった。生と死、異なる世界に在りながら、いつも、そなただけが愛しかった。言霊に縛られながら、それでも抗う術を求め、我が子さえ手にかけたのだ。

 女神も泣いた。
 それでも、花のように咲った。

――ならばともに。今度こそ、離れることなく。

――ああ、ともに。

 美咲の身体から、ふわりと、女神が顕れた。
 それは、命を産み出した、全ての母神伊邪那美だった。
 慎也の中にいる伊邪那岐に手を差し伸べる。
 慎也の身体から、伊邪那岐が抜け出し、差し伸べられたその美しい手をとる。
 そして、二柱の神々は抱き合った。

 その時。

 美しい神鳴りがした。
 遠く離れた荒ぶる神と太陽の女神にも聞こえるほどの。
 それは、まさしく、神々の終焉の()だった。


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