真実の永眠
43話 気持
 二十二日の夜、私達は広島へと戻った。
 あんなにも素敵な夜を過ごしたものだから、ずっと優人といたい。近くにいたい。広島になんか帰りたくない。なんて、彼と付き合っている訳でもないのにそんな事を思って悲しくなった。
 だけど、時間と言うものは残酷に流れて行くもので。
 広島の家へと到着してすぐ、荷物の整理をした。鞄に詰め込まれた服を箪笥に戻す。私はある服を手に取ると、暫くはそれをじっと眺めた。
 ……この服。
 優人とドライブへ行った時に着た服。彼の家で彼のスウェットを借りた時に、この服の上から着たものだから、服から漂った香水の香りが……優人の、香りが……私の服にも移っていた。それがあの日の出来事を確かなものだと告げているんだ。
 だけど……遠く離れた今、彼との日がこんなにも苦しくなる。この香りが辛くなる。
 ピンク色のニットセーター。
 洗濯する事も何だか寂しくて、そのまま箪笥に仕舞い込んだ。この服は、この先ずっと、着られなかった。



 荷物を片付け終えると、私は窓から暗い外をぼんやりと見つめていた。
 あの日の出来事をなぞっていく。
 あの日――それは、優人とドライブに行った日。あの日は、十九年という短い人生の中で、一番幸せな日だった。
 だけど、謎は一つ残ってしまって。後悔なんかは、幾つも残ってしまって。
 優人の行動、あれは、何だったのだろう。それからあまりにも普通に過ぎてしまって、彼とのメールも、本当に何事もなかったかのように普通で。あの出来事は夢だったのではないかと思いそうになる。
 夢現、なんかじゃない。現実に起こった事なんだ、あれは。先程箪笥に仕舞い込んだあの服にも、香りは確かに残っていたんだ。
 ……もし。
 もし、あの時彼の手を振り払わなければ、二人の関係に何らかの変化があったのだろうか。
 どうして、どうして優人はあんな事をしたのだろう……? 私が寒いと言ったから……? どうして優人は……。
 そんな事をどれだけ考えて悩んでも、答えなんかないのに。疑問、後悔、そればかりが心を占める。
 深く大きな溜息をついた。
 あの日、あの時、優人が背を向けている私に近付いて来た時。背中に感じる彼の体温が、とても温かかった。人の体温も誰かに触れられる事も、私は嫌悪感を抱いていたのに、相手が優人だと嬉しくて幸せで。あの時は緊張して強張って、怖いと感じているのに、それでも彼の体温は優しくて温かいと思えた。
 好きな人だと、こんなにも違ってくるのだろうか。
「――ねぇ、」
 突然掛けられた声に、私の思考は寸断された。それと同時に肩がビクッと揺れる。
「……ビックリした……何?」
 声を掛けて来たのは夕海だ。
 テレビを観ていた筈なのに、今はそれが消されている。私はそれにすらも気付かない程、上の空だったみたいだ。
「……何かあったの?」
「……」
 沈黙が、肯定を示しているにも関わらず、
「…………何で?」
 暫しの沈黙後、私はそんな言葉を紡いだ。
「よくボーッとしてるしさ。何かあったんでしょ?」
「……別に何も……」
「分かってるんだから。……泊まった日に何かあったんでしょ?」
 私は目を見開いて夕海の顔を見た。まさか気付かれるなんて。
 ……鋭いなぁ。
 私は小さく溜息をつくと、観念して、恥ずかしかったけれどあの日の出来事を全て話す事にした。









「……それって、優人さんはお姉ちゃんの事が好きなんじゃないの?」
 全てを話し終えると、夕海は真剣な面持ちでそう言った。
 私は夕海の顔をじっと見て、だけど夕海はまだ何か言いたそうな顔をしていたから、黙って続きを促した。
「……何か……何て言うのかな……。好きって言うか、あの日に好きって自覚したと言うか……」
「……」
「うーん……あの日に好きになったのかな?」
「ふふっ」
 夕海から紡ぎ出される言葉を黙って聞いていたけれど、何だかまとまらない彼女の思考を聞いていて、思わず苦笑してしまった。
 私は夕海から視線を外して、窓から外をぼんやりと眺めた。そして呟く。
「……好き、ではないような気がする……」
「じゃあ何?」
 間髪容れず夕海は問う。
「……」
「……」
「……それは、わからない……」
 問われて考えてみたけれど、問われずともずっと考えてきたけれど、その答えに確信など持てなくて。
 私は夕海の方をもう一度向くと、曖昧に笑って見せた。すると夕海は、不満気な表情で、どこか怒気を含んだ顔で、
「……じゃあ優人さんは、好きでもない人にあんな事すんの?」
 そう言った。
 それを言われると……。
「……優人は、そんな人じゃないよ」
「でしょ?」
「……うん」
 私の返事を聞くと、夕海はどこか満足そうな顔をした。
 優人がそんな人じゃない事くらい、私が一番よく知っている。だけど、やっぱり彼が自分を好きだなんてどうしても思えなかった。
 好き、ではない。ではないのだけれど、私は一つだけ思う事があった。でもそれは自分が感じただけであって、みんなには理解されない事かも知れないから、私は優人から感じたものを結局誰にも話す事はなかった。
「――ねぇ、お兄ちゃんにも意見聞いてみたら?」
「え!?」
 夕海の言葉に、私は驚いて声を上げた。
「や、やだよ……あんなの恥ずかしくて言えないよ……。夕海にだって話すの恥ずかしかったのに……」
「でも男の意見も欲しいじゃん。優人さんの気持ちが少しでも分かるかも知れないよ」
「うーん、でも……」
「ちょっとお兄ちゃん呼んで来るね!」
 躊躇する私に構う事なく、夕海はすぐさま立ち上がり兄のいる部屋まで行ってしまった。









「それは“遊び”か“好き”、どっちかしかないだろ」



 あまりの恥ずかしさに、しどろもどろになりながら漸く全てを話し終えた私に、真顔で兄はそう言った。そして続ける。
「でも、今までのお前の話から優人君をイメージすると、前者はなさそうだな。……好きなんじゃないか?」
「ほら! やっぱり!」
 兄の発言の横からそう言うのは、夕海だ。
「……お兄ちゃん、この間は諦めろって言ったじゃない」
 私が呆れたようにそう言うと、兄は二カッと笑って、
「いやー、何か分からなくなって来たなー!」
 そう言った。
 私は目を細めて、ただただ呆れて兄を見た。
 勿論、二人の言葉に素直に嬉しくもなったけれど。
「ま、もう少しだけ頑張ってみればいいんじゃないか?」
 諦めろって言った時とは打って変わり、今の兄の表情は、少しだけ希望を見ているような感じだった。
 私はそれに素直に喜んだ。
「――それに、」
 まだ何かを続けようとする兄を、私と夕海は同時に見た。
「もし――前者の“遊び”だったとしても、……まぁ優人君はそんな奴じゃないと思うが。だけどもし、もしそうだったとしても、それでもお前は喜んでもいいと思う」
「……」
「……何で?」
 怪訝な顔で尋ねたのは夕海。
 心底意味が分からない、といった表情だった。
 私は何となく兄の言いたい事が予想出来たから、黙って続きを促そうと思った。
「遊びで家に上げるような男は、普通なら手を振り払われてももう一度何らかの行動を起こすだろう。だけど優人君は、それをしなかった。雪音は、少なくとも優人君に粗末には扱われていないという事だ」
 諭すように話した兄の言葉に、夕海は納得したようだった。
「そっかぁ……」
 そう言って夕海も嬉しそうに笑っている。
 私も勿論、兄の言葉がとても嬉しかった。
 そしてやっぱり、優人がとても誇らしく思えた。
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