真実の永眠
51話 孤独
 全ての感情を曝け出したあの日――死にたいと泣いた日――以来、感情のコントロールがこれまで以上に困難になった。普段ならば何でもない事にも苛立ちを覚えるようになり、傍に居る人間の存在が煩わしく感じていた。それ故に、行き先も告げず突然家を飛び出すようにもなった。
 戸惑い、困惑、苛立ち、悲しみ、ありとあらゆる感情を皆から向けられている事に気付いていながら、それでも自分の感情も行動も制御出来ないでいた。
 夕刻、今日も一人で河川敷にいた。
 何をするでもない。膝を抱えて座り込み、ただ此処にいるだけ。
 今日は実家で、家族揃って夕飯を食べる事になっていたが、家族といる事に突然煩わしさを感じ、ただそれだけの理由で家を飛び出した。“あの日”以来、皆が私の機嫌を伺うようになった。機嫌を損なわないような気遣い、更には哀れみさえ感じる。同情のつもりか、何を思っているのか分からないが、哀れむような目に嫌悪を抱いた。――そういったもの全てが不愉快だった。
 心配する母や夕海から、メールやら電話やらを私の携帯電話が受信する。心配させて申し訳ない――そんな感情は一切なかった。鬱陶しい、それだけ。
 受信音が耳障り、不愉快を露にした顔付きで、私は携帯電話の電源を切った。
 抱えた膝に、顔を埋めた。
 風が冷たい。ああそうか、もうすぐ十二月になるのか。
 飛び出したのは突然の行動であった故、あまり着込まずにここまで来てしまった。寒い。
 前方から微かに話し声が聞こえて、顔を上げた。そこには、高校生の男女が歩いていた。男の子は自転車を引きながら歩き、その左隣を女の子が歩く。暗闇の中でも見える、懐かしい制服に身を包む二人。私の後輩になるのだろう。
 あの二人はきっと恋人同士だろう。今この瞬間の、私が彼等に向ける眼差しに、羨望は含まれているのだろうか。何も考える事は出来なかった。
 一瞬彼等が不審そうな目を向けてきたけれど、全く気にならない。
 冷たく、悲しい風が吹く。寒さに指先の感覚をなくしていく。
 彼等が遠ざかった後、暗い空を見上げた。そこには、泣きたくなるくらいに星が瞬いていた。その美しさが眩しい。今の私に大きく欠落したもの。
 私が、壊れていく。私が、私ではなくなっていく。涙は使い果たした。だからもう、流れない。
 再び何やら声が聞こえて視線を下に向けると、今度は犬の散歩をしているおじさんが通り過ぎて行く。「どうしたの?」なんて、声を掛けてくれる人はいない。手を、差し伸べてくれる人はいない。――今、一番ここに来て欲しい人は、絶対に来ない。アニメや漫画のように、そんな奇跡は起こらない。





 孤独、だった。





 それから一時間程経過しただろうか、私は電源を入れようとポケットから携帯電話を取り出すが、その所作すら思うように動かない程、この手は冷え切っていた。電源ボタン一つ押す事すら苦労した。
 何通、何件ものメールや電話の受信量を見て、顔を顰める。過度な心配が鬱陶しくて仕方がない。
 また、電話が鳴る。母からだ。どうせ出た所で、私の機嫌を伺うような声で話し掛けてくるんだ。どこにいる? 何してる? 早く戻って来い、心配させないで。毎回同じ事を言ってくる。私の行動が言わせているのだけれど、それを申し訳なく思う心など今の私には皆無だ。それくらい、私の心は荒んでいた。そもそも一体何が心配だって言うのだ。
 鳴り続ける電話を無視し、スッと立ち上がる。実家ではなく、自分の家へと歩き出した。家族とわいわい食事を楽しもうとは思わなかったから、電話の着信音が鳴り止むとすぐに携帯電話を開き、母にメールで一言、
<帰る>
 とだけ書いて送信した。
 少し歩かなければならないが、それでも帰れない距離ではない。一時間弱、と言ったところか。実家がある方角を一度振り返る。実家ならここから十分も掛からず帰れるが、やはりもう、そちらへ帰ろうとは思わなかった。
 恐らく、私から連絡が来た事に安堵したのだろう、それきり電話が鳴る事は無かったが、メールが来た。
<帰るならそれでいいから。今はどこにいるの? 送っていくよ>
 溜息をついた。取り敢えず放っておいて欲しい。
<いい。もう家近いから>
 嘘を言っておく。今更誰かに会うのは面倒だったし、話すのも面倒だった。
 それに、嘘でこの空虚な一時間の理由になる。今から帰るなんて言えば、じゃあこの一時間何をしていたんだときっとそう問われるだろうから。
 その回答を探す事もやはり億劫で、携帯電話をポケットに仕舞うと、止めていた足を踏み出した。暗闇の中、自分の家を目指す。――本当は来て欲しい、なんて。僅かでも心のどこかで思えたならまだ可愛い自分でいられたのに、今の私は心底家族のこういった行動が鬱陶しくて仕方なかった。











 帰宅し、電気を点けた。パッと明るくなった部屋が何だか眩しくて、そして何だかその眩しさが久しい気がした。暗がりにいたのはほんの数時間の筈なのに。
 ベッドに座り込み、やはり何をするでもない。夕飯も、今日はいらない。
 今ここにあるのは、家具と、空気と、私と、虚無感。
 ああ、感情のままに言葉を紡いで、感情のままに泣き叫ぶ事が出来たらどんなにいいだろう。――こんな風に考えた時点で、自分は心の全てを解放していないのだと気付いた。結局いつも、見えているのは、見せているのは、本音の手前なのだ。
 フッと、笑みを浮かべた。自嘲するような薄笑い。この世の何もかもを忌み嫌うような、私はそんな醜い顔をしているだろう。そんな今の自分が大嫌いで。



 涙が、零れた。



 あれ、おかしいな。使い果たした筈なのに。
 負の感情が巡る度自己嫌悪に陥って、けれど、振り払う事も出来ない程に心中を物凄い勢いで駆け巡る。“今”という場面でずっと立ち往生したまま、どうする事も出来ない。解決策が見付からない。そしてその原点にある、――一人の存在。
 膝の上で握り締めた手に、幾筋もの涙が落ちる。
 今一番ここにいて欲しい人は、やっぱり、いないんだ。 
< 66 / 73 >

この作品をシェア

pagetop