愛を待つ桜
相手は、あのお花見パーティの日に婚約者と名乗った女性、笹原智香――。

一条社長夫妻の前で聡と再会したとき、彼の横から夏海に話しかけてきた女性だった。


『私、聡さんの婚約者で笹原智香と言いますの。父は横浜で病院をやっておりますのよ。私たち仲良くできますかしら?』


その言葉に雷に打たれたような衝撃を受ける。


(私は、婚約者のいる男性と関係してしまったの?)


しかし、夏海の困惑を断ち切るように、慌てた様子で聡は叫んだ。


『私は君と婚約などしていない! 誤解を招くようなことは言わないでくれ、不愉快だ!』


聡は心底迷惑そうに言い切った。
あまりに辛らつな口調に、言われた智香も唖然としていた。


このときの強い否定はいつまでも耳に残り……。

そして家まで会いに来てくれたとき、恋に不慣れな夏海は彼の言葉を百パーセント信じてしまったのである。



   ☆



でも、あのときの否定は嘘だったのだ。
夏海は、結婚前の遊び相手にされただけだった。

悠はそんな彼女を絶望の淵から救ってくれた。子供のために必死で働き、生きてきたのに、なぜ、今になって子供の親権など求めるのだろう? 

――自分を信じて身を任せて欲しい、彼はそう言った。

運命の人と信じたからこそ、身体も心も許した、たったひとりの男性だ。
そんな夏海の純愛を踏み躙り、我が子を殺せと命じて捨てた。あの男を憎む権利は、捨てられた母子にあるはずなのに……。

それなのに、聡はまるで自分が傷つけられたように、夏海を射る様な視線で睨んだ。
夏海を憎み、最愛の息子を奪い取ると言う。なぜここまで理不尽な扱いを受けなければならないのか、夏海には全くわからない。

だが、『給料はこれまでの倍額』という提示に、夏海は妥協せざるを得なかった。

出産費用のローンがまだ数10万円も残っている。
加えて、2歳児の保育料は負担が大きく、これからもどんどんお金は掛かってくるだろう。

聡から施しを受けるわけじゃない。
司法書士として働いて、報酬を得るだけだ。これまでより、国内トップと言われる法人専門の法律事務所だから、報酬が高いのも肯ける。

このときの夏海に、断わる自由などなかった。


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