愛を待つ桜
そして夏海も背中に聡の視線を感じていた。

振り向いて、間違っても視線が合えばどうなるだろう。深く考えずとも答えは見えている。

聡には声も掛けず、そのままキッチンの流しにある蛍光灯を点けた。
悠を起こさないためだ。
蛍光灯は2、3度瞬き、薄暗い灯りがキッチンに広がる。

キッチンにはふたり掛け用の食卓セットがあり、その椅子にバッグとジャケットを掛け、夏海は和室に続くガラス戸を開けた。

6畳の和室には、戻ってすぐ寝られるように、と布団が敷いてあった。

奥に敷かれた子供用の布団を整えると、夏海の後から入ってきた聡が、ゆっくりと悠を下ろす。

夏海が子供の靴や靴下を脱がせる間、聡はジッと息子の寝顔を見つめていた。


狭く薄暗い部屋の中、微妙な沈黙が漂う。

夏海は耐え切れず、サッと立ち上がりキッチンに戻った。

その途中、手前に敷かれた布団が妙に艶かしく思えて落ち着かない。


聡はすぐに帰ってくれるだろうか?

急き立てて追い出すのも、まるで意識してますと言わんばかりで悔しい。
夏海は勤務中と同じく、可能な限り落ち着いた声を出した。


「お茶とコーヒー、どちらがよろしいですか?」


和室に背を向けたまま尋ねるが、何の返事もない。


「一条先生?」


まだ悠の側にいるのだろうか。

夏海が振り返ったとき、彼は真後ろに立っていた。


そのまま、伸ばされた両腕が夏海の体を包み込む。


「あっ……やっ!」


あまりに突然のことに、体が強張る。
それでも、聡の束縛から逃げようと彼の胸を両手で押しやった。


「何……何をするの? どうしてこんな」


上半身に空間ができ、聡を問い質そうと夏海は顔を上げる。

だが、その唇は言葉を紡ぐ暇もなく彼の唇に塞がれた。

その瞬間、夏海の中にあの日と同じ情熱が甦った。


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