絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅱ
榊久司は薄暗い明け方の道をジャガーで走り抜けながら、香月が今日ロンドンへ来たいと、今行かないと後悔すると言った理由をずっと考えていた。
 多分きっと彼女は日本で、想像できる範囲内の生活をしているはず。
 毎日、仕事に行って、レイジという家族が心配する自宅に帰って。道を歩けばすれ違った人が振り返るのを気にともせず、そのまきちらしている魅力に何も感じず、ただ、何一つとして抜かりないその端正な顔を少し傾けて、微笑する。長いつややかな髪の毛は肩から背中へ流れ落ち、手で触れようとも、その指をすり抜けて、ただの心地良い感触しか残らない。全体を支配する白い肌は透き通り、ただ、触れることも恐れるほどの、肢体。
 口から吐き出されたタバコの煙が煙たくて、サイドウィンドウを少しだけ下げる。
 遠い昔、そのピンク色の頬を何度も手の甲で撫でたことがある。彼女は、何も言わず、ただその行為を続けるこちらの顔をずっと見ていた。
「……」
 何も言わずに彼女は目を閉じた。
 何か聞かれれば、「若いな」と、ありきたりな一言を言おうと考えていたのに、彼女はそんなことどうでも良さそうに、ただ、この2人の存在だけが真実だとでも言うように、静かに目を閉じた。
 その時、彼女は大学生。そこそこ賢い。突然何もないところから、ありえもしない発想をする時の瞬発力といったらないし、会話の切り替えしも早い。
 若々しい肉体を思いのままにする。そのことに少なからず罪悪感があった。自分は、職場で出会った若いナースである、大病院の娘と親しくなり、相手の機嫌をとりながら食事に出向くというのに、その裏で、香月には大人の顔をして「学校へ行け」だの「勉強をしろ」だの言いながら、一時壁を越えてしまえば、その腰に深く手をかけている。
 仕方ない。その時は、このまま、加奈子と一緒にいれば、自分は救われる。世の中に救われると思っていたのだ。
 そういう時期だったのだ。若い頃の話。
 東条加奈子はというと、強い、賢い女だった。強く尊敬している東条病院の経営者であり、医師でもある父親の手伝いがしたくてあえてナースになるという夢を叶えた真っ直ぐな女でもあった。女医でいることの方が遥かに彼女に適していたが、彼女自身はナースでいることに強く意味を見出していた。そんな彼女が俺を選んだのは、成績のせいだけではなく、機嫌のとり方が気に入ったのだろう。結婚が決まったその後は、単純に、恋をしていたのだと思う。愛されている、という確信があった。
 それに引き換え自分は……、結婚して、救われたものの、悩むことが多かった。引き金になった誰とも知らない子は流産したし、義父の方針にはなかなかついていけなかった。
 離婚するべきだったと思う。
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