三日月の下、君に恋した
 時間はゆるやかに過ぎていく。


 ここへ来て、このベンチに座ってから、どのくらい時間が経ったのかまったくわからなくなっていた。


 ふいに現実が遠ざかって、強い既視感に襲われた。

 自分の隣で黙りこむ社長に息苦しさを覚えるのも、噴水のまわりで子供たちと一緒にはしゃいでいる菜生を愛しく思うのも、ずっと前に、確かに経験したような気がする。

 ──しっかりしろ。

 ぐらぐら揺れる世界の中の、どこに足を降ろせばいいのかもわからない。けれど、引き返すことはできなかった。


「葛城先生だけじゃないと思います。社長の絵を見たいと思っている人は、きっとほかにもいるはずです」

 もう一度絵を描いてほしい。

 誤魔化すことのできない心が、強く語っている。

 もう一度、自分のために絵を描いてほしい。


「何度も言ったけど」

 羽鳥は落ち着いた声で航の言葉を遮った。

「あれは私の絵ではないんだよ」

 膝の上に置いた右のてのひらをゆっくりと開いて、老いた五本の指をじっと見つめる。
< 207 / 246 >

この作品をシェア

pagetop