気持ちは、伝わらない(仮)

 左足には大げさなギプス、その上には顔に似合わぬ真っ白な包帯。

 榊医師は一成夕貴を車椅子に乗せて、屋上まで散歩に来ていた。その行為は彼にとって珍しいことではない。病は気から、気は病からというのはあながち迷信ではなく、患者を連れて外に出ることを習慣化するほどで、それは暇さえあればという前置詞をつけてもいい。

 ただ一つ、珍しいのは自分が受け持っていない患者をその対象にしたことである。榊は一成を担当してはいなかった。

「どうだ、その血は?」

 車いすにブレーキロックをかけると、フェンスに背をもたれた。

「あんたも変わらないな」

 榊は患者に向けてタバコの箱を振る。

 一成は素直にそれを一本とった。次にライターを手渡す。ホスト相手に火をつけてやる気にはならない。

「あんたが手術してたら俺、死んでたかも」

 一成は一口吸ってしばらくしてから、本音を言う。3日ぶりの喫煙で、軽い浮遊感が蘇ったのだろう、彼はぼんやり遠くを見つめた。

「殺すなら最初からそうするね。止血に見せかけて出血させるよ」

 正論を述べたまでだが、一成は想像以上に反応し、こちらを睨んだ。

 静かに息を吐きながら、青空の下の街並みを見つめた。だが、今吐き出した煙のように、自分の中の忘れてしまいたいことや、失くしてしまいたいものはなく、今は例えこの空の元にいようとも、自分の中の何も変えたくはないと再認識した。

「こん中に違う血が混ざってるのかあ」

 一成は腕を太陽に透かして言った。もちろん、そうしたからと言って、輸血した他人の血が見えるわけではない。

「鈍感で良かった。副作用が出てない」

「いっちいち、腹立つな……」

 元気そうに煙を吐く姿を見て、タバコがより一層旨く感じる。

「あんた、本当に愛が好きなの?」

 どういうつもりか、一成は突然質問をふっかけてきた。

 そして、こちらを上目使いでじっと見る。もちろん、そんなことで視線を逸らすこともない。

「好きさ。彼女を嫌いな人間はいない。いや、嫌いな人間はいるかもしれないが、彼女に惹かれない人間はいない」

 その言葉に納得したのか、一成は少し頷いたような気がした。

「……結婚するのかよ」

 短くなったタバコを、まだ吸うフリをしたいのか、質問をしながらも不安になっているのが分かる。

 榊は半分笑った。

「お前ならするだろう?」

「するよ、俺なら」

 挑戦的なその瞳は、ずっと変わらない。愛を近くで守り続けてきた、証でもある。

「俺が愛の恋人なら、迷わずする。俺はあんたと違って、普通で優しい男だ」

「自分で言うなよ……」

 そう言いながら、足元にあった吸殻入れらしきさびれた缶に、吸殻を入れた。

「少なくともあんたよりいい自信はある。そんな自信、何の役にも立たないけどね……。
はい。これ、捨てて」

 一成は短くなったタバコを差し出す。今医師である榊は、嫌な顔一つせずに受け取ると、丁寧にそこへ入れた。

「……別れるかもしれない」

 聞こえなければそれでいいと思いながら、小声で言ったが、一成はその一言を聞き逃しはしなかった。

「お前、ちゃらちゃらしすぎなんだよ! 医者のくせに遊んでばっかいンなよ! 

この前ホステスにまで色目使ってたろ……泣いてたぞ、チエ。マジふざけんなよ」

 一成の下からの視線が、痛いとは思わないが、痛々しくは感じた。

「医者のくせに……か。ホストならいいわけ?」

 少し吹いた風に、髪が乱れた。 

「俺は仕事だよ。仕事とプライベートの見分けがつきにくいだけで。でも本質は全然違う」

「言い訳っぽいな」

 この一言に一成は一瞬考えて、再び放った。

「言い訳じゃない。プライベートと見分けがつきにくい仕事をしているのが、一流って証拠だ」

 一成はテレビで特番を組まれるほどの一流、現在日本で最高売上記録を保持する、売れっ子ホストだ。その一成の言葉になんとなく納得した榊は一成の背後に周り、車椅子のブレーキロックを解除した。

「あんたが背後にいると思うと落ち着かない……」

 斜め後ろを確認しながら、一成は呟く。

「そんなに俺に殺されたいなら、点滴に水でも混ぜて殺してやるさ」

 もちろん冗談で言う。だがそれが通じない一成は、そこから前を向くことはなくじっと後ろを見つめたまま、病室まで警戒を解くことはなかった。

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