気持ちは、伝わらない(仮)

 7月初め。

その日阿佐子は高級車での迎えを断り1人で下校していた。学校はもうすぐ夏休みに入り、それを見透かしたように仕事が忙しくなってくる。この夏、休暇というものがもらえるのかどうかは全く不明だ。

 曇った空を一度見上げ、少し急ぎ足である店へ向かう。それはもちろん、グラス。もうここ一か月ほどあの人を見かけていない。

 ミナトと呼ばれていたあの人。苗字だろうか、名前だろうか、ニックネームだろうか。結婚はしているのだろうか、彼女はいるのだろうか。どんな家でどのよう暮らしているのか、毎日どんな仕事をしているのか。

 そして一番重要なのは、私のような女を相手にしてくれるだろうか。

 年は10近く離れているだろう。少なくも見積もっても8くらいか。社会人3年目の25歳という雰囲気ではない。おそらく30前後だ。

 まず、180以上はある長身、面長の顔に切れ長の目、メタルフレームのメガネにダークスーツ。黒い髪はサラサラ。この清潔感から営業系のサラリーマンであることは確かだ。この店で見かける時はたいてい後輩らしき人がついてくる。外回り後、社に戻るまでの休憩といったところか。

 はあ……阿佐子はテーブルに肘をつき、ウェイトレスが運んだばかりのオレンジジュースに溜息を吹きかけてから外を見た。降り出したのは当然、雨。

 今日も会えない……。

 こういった場合、会うという表現は正しくないのかもしれない。見る、もしくは眺めるといった方が正確か。

30分ほど1人で粘ったが、店を出ることにする。朝執事に指示されて持った折り畳みの傘が、役に立ちそうだ。

 早々に会計を済ませ、店の外に出る。

「!!!!……」 

 思わず悲鳴をあげそうになる。店のドアを開け、前方に見えたのは、今しがたからずっと妄想していたあのダークスーツの後姿だった。相手は後ろを振り返り、一度見てから道を開ける。

「そこのコンビニまで走るしかないっすね」

 やはりあの後輩もいる。どうやら2人は突然の雨に立ち往生しているらしい。

「あの……」

 阿佐子は素早く声をかける。ミナトを見つけた瞬間から、阿佐子の頭は既にプランを立てていた。

 女の声にミナトがこちらを向く。

 彼と目が合った。だが阿佐子はすぐに目を伏せる。

「これ、使って下さい」
 
阿佐子は傘を差し出した。突き出した自分の右手の先にある傘を見て、初めて後悔する。こんな真っ赤な傘、サラリーマンがさせるはずない。

自分が緊張していることを初めて自覚したが、もう遅い。どうせなら、ベージュの物を持ってくればよかったと心の底から後悔が募る。

「いや、でも……君が濡れるから……」 

 ミナトが心配そうにこちらを見つめているのが分かる。

 顔を上げて、目を合せたい。

 そんな、極上の時間の中に浸ろうと思った瞬間、隣にいた後輩と目が合って、我を思い出す。

「いえ、使って下さい。あの赤ですけど、させますから!!」

 阿佐子は赤い傘を無理矢理押し付けると相手が握るのを確認し、すぐにダッシュした。

 後ろから何か声がしたような気がした。だがその時の阿佐子には、振り返って確かめる勇気はなかった。

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