絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅲ
 本気でする話ではない。分かってはいたが、榊が妙に真剣に答えるので、話がどんどん進んでしまう。
「俺は愛が幸せになれればいいと思ってる」
「私は……久司と一緒にいることが幸せだと思ってたのに」
 涙が溢れそうで堪えるのが苦しかった。
「優しいんだよ、俺はきっと」
「そんなの、優しさかしら」
「愛の前じゃ尻込みしてしまう。それくらい、素敵なんだよ」
「私を馬鹿にしてるみたい」
「そういう真っ直ぐなところがいいんだよ」
「意味分かんない」
 素直に榊を睨むと、彼は笑った。
「誰しもバカじゃない。そんなバカなら、愛が選ぶはずがない」
「そうなのかな……」
 なんとなく相槌を打った。榊にはそれが通じたのだろう、その後は何も言わずにただ水を一口飲む。
 香月もそろそろ時間だと思って、残りの冷え切ったコーヒーを飲み干した。
「今度夕ちゃんのお店に行かない? 久しぶりに」
「ああ、そうだな……。あの辺はよく通るけど、覗いたことないな」
「また連絡するわ。今日はありがとう。お兄さんに電話したら、一応久司にも連絡するね」
「ああ、助かる」
 その後、もちろん榊が会計を持ち、香月が先に店から出た。あの日、マンションの門の中まで入るところまで榊が見送ってくれたことを思い出す。
「さて、じゃあ帰るね。ありがとう」
「送るよ」
 そういえばこの前もそう言われた気がする。
「いいよ、だってすぐそこだもの」
 そしてこうして断ったと思う。
「そうか? じゃあ、ここから見てるよ」
 これは榊の私への特別な優しさではない。
「うん、じゃあ、またね」
 ただのいつも通りの、日常のことだ。
「ああ、気をつけて」
 榊が自分のことを嫌っているわけではない。今はそれで十分だ。
 それにしても、付き合っている彼女がいるのに、昔の彼女を褒めるなんて。
 香月はその、どうしようもない優越感に浸りながらマンションの門をくぐり抜け、やはり後ろは振り返らなかった。
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