barqueにゆられて



 彼の指は細くていらっしゃいました。白く、そして長かったです。爪も整った形をしていますが、これといった手入れはされていないようで、爪の先は少し汚れていらっしゃいました。そういった特徴以外に目が留まったものは、中指のペンたこでしょうか。
 私はこれまで、お客様の素性を知ろう、と思ったことはありません。しかし、彼に限っては、そうではありませんでした。何と申し上げていいか分からないのですが、何故か私の胸は逸ったのです。
「失礼ですが、お仕事は何を?」
「……売れない、小説家だ」
 やはり、小説家さんでいらっしゃいましたね。
「ペンネームをお聞きしてもいいですか?」
「……聞いて、どうするんだ?」
「あなたの書いたお話、読みたくなりました」
 彼は嘲笑を浮べました。私に向けたのか、それとも自分に向けたのか、それは分かりませんでしたが、確かな嘲笑であります。
「俺の話は書籍化されていない。本屋で探してもない」
「なら、原稿でいいので、読ませてくれませんか?」
 彼は私を不思議な目で見てきます。
 私からすれば、あなたの方が不思議な人間なんですよ。
「死ぬことを考えている人間の書く物語が、どんなものか、私は知らないので」
「……馬鹿にしてるのか」
「いいえ。ただの、興味です」
 彼は結局、紅茶に口をつけることはなく、そのまま店を去っていきました。
 扉が閉まり、鳴っていたベルの音も静かに止まりました。
 私は一切手の付けられなかったティーカップを取り上げて、ずず、と飲みました。
 「マスター。あいつ、何だったんだ?」
 サボタージュしている私を咎めるのではなく、先ほどのお客について聞いてきたのは、当店をご贔屓にして下さっている、土木工事のおじさん、松田さんでした。松田さんはアイスコーヒーの入ったコップを揺らしながら、カウンターまでやってきました。
 コップを持つ松田さんの指は太く、日に焼け、手の平には沢山の豆を作られていました。私は、松田さんのその手に触れました。すると彼は、とても驚いた顔をして、私と、自分の手に重ねられている私の手とを見比べました。
 私は、笑いました。
「あなたたちを知らない、生きたがりです」



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