桜の咲く頃に
 でも、次の瞬間、目に飛び込んできたのは、何かに怯えたような表情で後退りする男の姿だった。
「おい、お前どうしたんだよ?」
 すかさず駆け寄ってきた茶髪男が、不安気な声を出す。
 瞬く間にその顔にも恐怖の色が走った。
 その隙に乗じて足早にその場を立ち去る。
 しばらく進んで、後ろを振り返る。
追ってくる者はいない。
 ああ、助かった。
 今度こそ安堵の胸を撫で下ろす。
 一体あいつらに何があったって言うのよ? 前にどこかで会った覚えもないし……まさか、あたし車窓に映ってたあの浮かばれないものたちを連れてきたのかしら?
 でも、辺りを見回しても、そこにあるのは、ひっそりと静まり返った住宅街を弱々しく照らしている、まばらな街灯だけだ。

 ようやく辿り着いた我が家の玄関の電気はついていた。
 いつも寝る前には消してたはずなのに……帰りが遅くなることを言って家を出たのかしら? 
 不思議な気分で鍵をドアの鍵穴に挿し込んで回す。
 鍵は回っても、ドアは開かない。補助錠が取り付けられているらしい。
いつから?
 阿梨沙には記憶がない。
 インターホンの呼び出しボタンを押す。
「阿梨沙? すぐに開けるから……」
 そう言い終わるや否や、母親が出てきた。寝ずに待っていたに違いない。
「もー心配させないでよー。行き先も言わないでふらっと出ていって、こんな時間まで帰ってこないんだから……昔と違って、最近はこの近所でも空き巣やストーカー被害に遭ってる人がいるから、夜はこうしてしっかり戸締りしなきゃ。阿梨沙も大学受かったからって、あんまり浮かれてんじゃないわよ。梅野さんとこのお嬢さんの二の舞にはなってもらいたくないからね」
 え、あのイケイケ娘に何があったっていうのよ? まさかレイプ? それより高2のあたしが、どうやって大学に受かれたっていうのよ! 何がどうなってるのかさっぱりわからない!
 聞きたいことが山ほどあったけれど、阿梨沙は、黙って母親の話を聞いているしかなかった、記憶喪失したことを悟られないために。
「一人暮らし始めても、あんまり羽目外さないようにね。家賃もお手ごろだけど、何よりも前に住んでた人が亜梨沙の友だちでよかった。家具を残していってくれたっていうし……それに、亜梨沙、もうバイトも見つけたんでしょう? うちは今あんまり余裕ないから、助かるわー」
 え、あたし家を出てどこに住むんだろう? 友だちって誰のこと? そもそもここから通える範囲に幾つか大学あるのに、どうやって親父を説得したんだろう? バイトってどんなバイト? もう何が何だかわからないよー。
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