触れる吐息とその熱が
 すれ違う廊下、お互い目も合わせないのは暗黙の了解。
 普段は近付く事もない。その約束のはずなのに、猫みたいに気紛れで強気な彼は時折その境界線を簡単に飛び越えてくる。
「ちょ、」
「シィ、黙って」
 人の目が途切れた一瞬の隙をついて引きずり込まれた、めったに誰も使わない薄暗いエリア。
 無言でネクタイを緩めるその衣擦れの音すら、危うい秘め事の甘さを孕んで私の耳を犯す。
 熱を感じる程の距離で彼は私から瞳を離さない。
 そのままシャツのボタンをひとつ、ふたつ外して、露になった彼の首には、薄くなった鬱血の跡が覗く。
 そして彼は私に思い知らせるようなわざとらしさでもって、その吐息と囁きを私の耳元に落とす。
「ホラ、ここ。…付けて」
「…ぁ」
「はやく」
 その言葉は甘く私の心を掻き乱し、私は命令に逆らえない奴隷みたいに、無言で顎を少し上げて、その薄い皮膚にくちづけ、吸い上げた。
 …それはもう幾度目だろうか。思い返して数えることも出来ない程に、クラクラする。
 チュ、と響くいやらしい音も、唇から伝わるその熱も、鼻腔を擽る彼の雄の薫りも。その総てがあまく、私を一人の女に変えてゆく。
 …暫くの後、そこからふるえる唇を離すと彼は満足そうに笑んでそこを一撫でし、鼻先をスリ、とあわせてきた。

 それはまるで、情事のあとのキスのようで。

 触れた鼻先からぴりと痺れるような疼きが滲んで、けれどそれは離れる熱と共に消えた。

 そうして彼は再びきっちりとネクタイを締めなおす。そうするとさっきまで露になっていたその秘め事の証も、まるで存在しないみたいに隠れてしまう。
 力なく壁にもたれかかる私の髪を、彼の長い指がまるでやわらかな羽を包むように触れ、さらりと撫でる。するとそれは音もなく滑り堕ちて揺れた。
「またね」
 そう言い残し去る彼の背中を見つめながら、私は、 時間の問題だと認めるしか、なかった。

 彼だけに一方的に散らされる跡。
 私の心が彼に堕ちた時、それが私の体にも散る。
 彼の熱。
 彼の声。
 彼の薫り。
 忍び込むようにそのすべてはするりと私の中に入り込み、密かに内側から侵食してゆく。
 彼のまだ触れたことのない箇所の熱を、思う様感じたい、と思う。
 けれどまだ暫くは、この秘密を愉しみたい、だから。

 首筋の滑らかな感触を唇に思い出しながら、私もその場を後にした。
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