踏みにじられた生命~紅い菊の伝説1~
第二章

『もの』

誰も居ないはずのアパートのドアの鍵穴に美鈴は鍵を入れた。するとドアには鍵が掛けられていなかった。母さんが帰ってきているのか、それにしても時間が早い。けれども、家の中は静まり返っているようだ。
 美鈴の母、鏡美里は保険の外交員を仕事としていた。成績は良くもなく、悪くもない、それでも毎月の営業ノルマはこなしていると前に聞いたことが美鈴にはあった。だから、帰宅は遅いことが多かった。そのため早い時間に帰ってきている様子に美鈴は訝った。
「母さん、帰ってきているの?」
 静かにアパートのドアを開け、美鈴は部屋の中に声を掛けた。
「あら、どうしたの、早いじゃない?」
 部屋の奥から美里の声が聞こえてきた。だが、その声には美鈴が何故早く帰ってきたのかを知っているような響きがあった。
 美鈴の母は妙に勘が鋭い時があった。周囲の様子から不穏なことを察したり、人の考えていることが判っているような感じがすることが過去に何度もあった。一度美鈴は母に、「その才能をもっとに生かせば、仕事の成績も上がるのに」と言ったことがあったが、母は「こういうことは目立たない方が良いのよ」と答えてはぐらかしたことがあった。きっと今日のことも何か察しているに違いない。
 美鈴は自分の部屋に入り制服から部屋着に着替え、居間兼母の部屋に入った。その部屋の中央付近に置かれているテーブルの一方に母が座っていた。美鈴はその向かい側に座り、母に視線を合わせた。母の視線が美鈴の話に非常に興味を持っていることを物語っている。
 美鈴は溜息をついて話し始めた。
「今日ね、学校で緊急集会が開かれて、それで帰ってきたの」
 美里はその言葉に何かを感じたようだった。
「それで、何があったの?」
 美鈴は俯き、やがて決意をしたように顔を上げた。どうせ隠しても母には判ってしまうのだ。
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