踏みにじられた生命~紅い菊の伝説1~

 留置施設の一室…。
 吉田恵子が膝を抱えて座っていた。
 彼女は自分が何故ここにいるのか判らなかった。鏡美鈴や小島良という刑事をナイフで刺したこと、三上響子、伊本彩花、野川明美を殺したこと、飯田美佳を襲おうとしたことについて取り調べを受けたが、自分には何のことか判らなかった。
 それらのことは一切記憶になかった。
 恵子は必死で刑事達にそう訴えた。
 けれども、誰も信じてはくれなかった。
 確かに、このところ記憶が抜け落ちてしまうことが度々あった。そして記憶が抜け落ちると誰かが死んでいた。刑事達の言うとおり、自分が犯行を繰り返してきたのか、響子はいつの間にかそう思うようになっていった。
 暗い室内、自由を奪う鉄格子、壁に張り付いている赤黒い染み、陰鬱な空気が恵子を包み込む。
 どこからか、微かな声が聞こえてくる。それは粘っこく恵子の耳に張り付いてくる。
「そうよ、全てあなたがやったことなの」
 不意に頭の中にそんな言葉が浮かんだ。
 恵子は俯いたまま視線を上に上げた。
 そこに吉田沙保里の姿があった。
 恵子は見てはならないもんぉを見てしまったと感じて、急いで視線を反らした。けれども、沙保里は音もなくその視線の先に張り付いてきた。
 恵子の心が凍り付いた。
 震えが止まらず,口を開くことも出来なかった。
「先生、誰も信じてくれないってどんな気持ちか判る??」
 沙保里が悲しげな視線を投げてくる。
「先生は私を信じてくれなかった。だから同じようにしてあげたの」
 沙保里はゆっくりと顔を上げ、鋭い視線を恵子に投げつけてきた。
「先生、これからどうしていくのかを選ばせてあげる。一つは私が先生の口を借りてこれまでのことを全て話してあげる。これを選んだら、先生は間違いなく死刑になるでしょうね。もう一つはこのまま忘れていること。こうするときっと精神病院に入れられるわ。これを選んだら私が決して先生を外に出られないようにしてあげる。どちらが良いかしら?」
 沙保里はケラケラと笑っている。
「明日まで待ってあげる。それまでにどちらが良いか決めておいてね」
 そう言い残すと沙保里は闇の中に消えていった。 
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