光のもとでⅠ

27~29 Side Soju 01

 秋斗先輩との森林浴から帰ってきた翠葉は様子がおかしかった。
 いつもなら、楽しかったことや嬉しかったことをすぐに話してくれる。寝る時間になっても、「あのね、それでね」と全部話し終えるまでは目をキラキラさせながら話す。
 が、昨日はそれがなかった。
 ただ疲れているだけかとも思ったけど、洋服も着替えずにベッドに横になるなんて翠葉らしくない。
 いつもなら、せめてルームウェアには着替える。
 何かあったのかを訊いても答えは得られなかった。
「何があったのか、どうしたのか、わからないの……。だから、何も話せない」
 そう、困惑した顔で口にした。
 ――無理に話させるものじゃない。
 以前、湊さんから言われたこともあり、それ以上は追求しなかった。
 森林浴へ行って心行くまで写真を撮ってきたはずだし、帰りはウィステリアホテルで特注のディナーを食べてきたはず。
 そのあたりで先輩が何かとちるようなことはないだろう。
 けど、八時前後に突如頻拍し始めた翠葉の脈――。
 それだけがひどく引っかかる。
 その直後、秋斗先輩から連絡があり、帰りが少し遅くなると言われた。
 間違いなく、"何か"はあったのだろう。
 それが何であるのかはわからない。
 まさか、秋斗先輩が翠葉に手を出したとは思いたくないが、否定しきれるわけでもない。
 翠葉のあの顔――明らかに許容量を越えた出来事があったはず。
 何があった……?
 翠葉のことが気がかりで、なかなか寝付けなかった。
 ベッドに横になり、携帯を開いては閉じる。
 そんなことを繰り返していた。
 けど、それで良かったと思う。
 翠葉の熱が急に熱が上がり始め、一時間と経たないうちに三十九度近くまで上がった。
 様子を見にいけば、帰ってきたままの状態で、布団にも入らずベッドに横になっていた。
 体温以外に異常を示すものはなく、少しほっとする。
「知恵熱、かな……」
 起こすのがかわいそうだったから、自分の部屋に戻って毛布を持って下りた。
 今が五月で良かったと思う。
 これが寒い季節だったら知恵熱に輪をかけて風邪をひいていただろう。
 毛布をかけ、熱い額に冷却シートを貼ると、翠葉の部屋を出た。

 自室に戻り気がづけば四時を回っていた。
 今日は走りに行くのはやめておこう。
 少し仮眠をとって、栞さんが来たら大学へ行くか……。
 片付けなくちゃいけないレポートもいくつかあるし、午後からは実験で抜けられなくなる。
 昼休みには秋斗先輩を訪ねよう。
 何があったのか吐いてもらう――。



 図書室の入り口、つい先日変えたばかりのセキュリティーをパスして中へ入る。
 仕事部屋へ通じるドアのセキュリティもひとつひとつ解除し、鉄製のドアが静かに開く。
 中にはいつもと同じように仕事をしている秋斗先輩がいた。
 入り口左にあるパソコンカウンターでは司もパソコンに向かっている。
 生徒会の雑用か、秋斗先輩の仕事を手伝っているのだろう。
 開校記念日で休みだというのにご苦労なことだ。
「あれ? 蒼樹、こんな時間にどうしたの?」
 不思議がられるのも当然のこと。
 通常、俺は大学が終わったあとにしか顔を出さない。
「今日は来る予定じゃなかったんですけど、ちょっと気になることがありまして」
「何? 昨日のこと?」
 すでに何を訊きにきたのかわかっているような口ぶりだ。
「えぇ……願わくば、昨日何があったのかぜひともお聞かせ願いたい」
 笑顔で返せば、秋斗先輩も笑顔を返してくる。
 司も気になったのか、こちらを振り返った。
「でも、蒼樹がここに来たっていうことは、翠葉ちゃんが話してくれなかったってことでしょう? それを俺が話してもいいのかな?」
「……当人、あまりにもいっぱいいっぱいになってるもので」
「相変らず過保護だな」
 と、軽く笑われた。
「理由はふたつあると思うけど……。俺が絡んでるほうだけ教えてやるよ」
 ふたつのうち、ひとつ……?
「俺、翠葉ちゃんに告白したから。っていうか、お試しで付き合ってみないか提案してみた」
「「はっ!?」」
 思わず口にした言葉が見事に司と重なる。
 ふたりして顔を見合わせたものの、それどころではない。
「秋斗先輩、翠葉には手を出さないでくださいっ」
「秋兄が相手にしてきた女とは人種が違うだろっ!?」
 司と俺が同じ意図のもと口にした言葉が面白かったのか、先輩ひひとりくつくつと笑っている。
「秋兄っ!?」
 俺よりも先に痺れを切らした司が、先輩にどういうことなのかを話せとせっつく。
「安心していいよ。遊びのつもりはないから」
 その一言をどう捉えたらいいのかがわからなかった。
 真意が見えない。
 先輩はいつだって核心めいたことは触れずに話す。
 だから、本気なのか冗談なのかが読み取れない――厄介な。
「蒼樹、そんな怖い顔しなくていいよ。はい、これ。昨日解約してきた俺の携帯。中、見るならどうぞ」
 そう言って差し出された携帯に飛びついたのは司だった。
「御園生さんは知ってるか知りませんが、こっちの携帯は女の連絡先しか入ってないんです」
 あぁ……確か、先輩はふたつの携帯を使い分けている。
 ひとつは仕事回線用と言っていた気がする。
「秋兄、これ――」
「うん。もういらないから解約した。一応個人情報の宝庫だったからデータ類は全部消去済み」
「……本気、なんですか?」
「その携帯以外にどうやったらそれを証明できるかな? なんだったらこっちのノートも調べる?」
 先輩が差し出したのはプライベート用のノートパソコン。
 学生の頃から、プライベート用のノートパソコンだけは誰にも触らせたことがない。
 そのパソコンをこちらに向ける。
「かまわないよ? 中に入っている連絡先に関しては、訊かれればすべて明白にできる」
 後ろ暗いことは何もない、とでもいうような物言いに呆気に取られたものの、こんな意思表示の仕方だけど、先輩なりの真剣さが見えた気がした。
 司はよほど衝撃的だったのか、珍しくもその整った顔を固まらせている。
 俺はひとつため息をつき、
「ただ理解できないのは、なんでお試しで付き合うなんて話に?」
 どうしても納得のいかない部分を説明してもらいたい。
 先輩なら好きだと思えば「付き合おう」と言うのではないだろうか。
 それをなんで――。
「その理由は言えない。けど、翠葉ちゃんは人を好きになるっていうことがどういうことかわかってないみたいだから。あとに引ける状態を用意しただけ。翠葉ちゃんにはクーリングオフ期間を設けるって話したけどね」
 余裕の笑みで言われる。
「それって……先輩があとに引けるっていう意味じゃないですよね?」
 わかってはいるつもりだけど、確認せずにはいられない。
「心外だな。純粋に翠葉ちゃんが俺からいつでも手を引けるように、と思ったまでだよ。年の差もある。加えて、翠葉ちゃんは恋や愛がどんなものかわかっていないからね。俺からしたら"恋愛ごっこ"だけど、それでもいいかなって思えたんだ。翠葉ちゃんが側にいてくれるならそれでいいかな、って」
「――本気ってこと?」
 やっと司が口を開いたかと思えば、その声はわずかに震えていた。
「そうだな……。もうほかの女が要らないと思える程度にはね」
 こんな答え方をするのは秋斗先輩の癖だろう。
「……なんで翠だった?」
 司の目が泳いで見える。
 その様に、“動揺”という言葉が脳裏に浮かぶ。
「……どうして、か。難しいな……。けど、あの子はそこらの女と違って駆け引きをしないしずるくもない。加えて、"藤宮"という家を全く意識していない。何より、彼女が笑うと嬉しいと思う。衝撃的だったよ……。ずっとその笑顔を見ていたいと思う。時々言ってくれるわがままがひどく愛しいと思う。人を好きになるってこういうことなんだって思えた」
 屈託なく笑う先輩は嘘をついているようには見えなかった。
 何かを含んだ物言いでもなく、ただ純粋に翠葉を好いてくれているように思えた。
 ――それならいい。あとは翠葉の気持ちしだいだ。
 いくら兄バカとは言え、翠葉が好きになる相手にまでどうこう言うつもりはない。
 そして、その相手の本気が見えるなら、俺がしゃしゃり出ていく必要はないし、何を言える立場でもなくなる。
 ふと、隣に立つ司に視線をやるも、茫然自失といった様子だった。
「司……?」
 司ははっとした表情をすぐに改め、
「……午後から部活だから」
 と、仕事部屋を出ていった。
 その姿を見送ると、
「蒼樹も気づいたか?」
 後ろから先輩の声がして振り返る。
「たぶんだけど、司も翠葉ちゃんのことを好きだと思うよ。あいつがそれに気づいているのか気づいていないのかはわからない。でも、気づいているのだとしたら、昨日のアレを見られたのは失敗だったな」
「……え?」
 昨日のアレ……?
「昨日、帰りの時間を少し遅らせてもらっただろ?」
「はい。……それと司が何か関係あるんですか?」
「それがもうひとつの理由。司がどこぞの令嬢をエスコートしてホテルにいた。双方両親が揃っているところを見ると、見合いだったかもしれない。そんな噂を聞かなかったわけでもないし、まだ裏は取れてないけどね。あとで湊ちゃんにでも訊いてみる」
 それでなんで帰宅時間が遅くなった……?
 ……もしかして、昨日、翠葉の脈拍が早くなったのは司を見て動揺したから?
 それが司の犯した失敗……?
「蒼樹の察しどおりだよ。翠葉ちゃんは司を見て動揺した。そういうの隠せる子じゃないしね。もしかしたら司を好きなのかもしれない。だから司の前では言わなかった」
「それは翠葉を思って? それとも――」
「後者のほうが濃厚。ただ、司に知られたくなかった。……翠葉ちゃんがあれだけ動揺する相手に嫉妬したってところかな」
 この秋斗先輩が嫉妬なんて――。
 座り心地の良さそうな、大きな椅子に体を預ける先輩をまじまじと見てしまう。
「そういうところ兄妹そっくりな?」
「あー……すみません。嫉妬してる先輩なんて想像できなかったもので」
 素直に謝ると、
「そうだね。今まで人に対して嫉妬なんてしたことなかったよ。自分、割となんでもできる要領のいい人間だし、人が欲するものはたいてい最初から手の内にある。だから、俺にとっては初めての感情――思ったよりも相当本気みたい」
 まるで他人事のように話す。
「翠葉が傷つくようなことだけはしないでください。それだけは――」
「……心得てるよ。何があっても彼女が傷つくようなことはしない。実のところ、結婚を考えちゃうくらいには本気だから。婚約するまではキス以上のこともしないと約束する」
 それはつまり――。
「だから、キスまでは許せ……ですか?」
「ま、そういうことかな?」
「……わかりました。あとは翠葉しだいなので……。俺、大学戻ります」
 来たときよりは数段軽くなった足取りで部屋を出る。
 初めて見た秋斗先輩の本気。
 自の従弟であり、九歳も年下の男に嫉妬したという先輩。
 もし翠葉が先輩を選んだとしても大きな不安はない。
 先輩が本気なら、なんの問題もない。
 ただ、司と翠葉の気持ちが気になる。
 司は自分の気持ちに気づいているんだろうか……。
 翠葉は昨日の動揺をどう消化するのだろう。
 起きた出来事を知りすぎるというのも問題かもしれない。
 さすがに翠葉の感情にまで口を出す筋合いはない。
 それでも気になるのは、どこまでもかわいい俺の妹だから。
 これはしばらく堪えて堪えて静観を決め込まなくていけなさそうだ。
 果たして、俺にそんな忍耐力があるのだろうか……。
 情けなくも少し不安になる。
 翠葉のこととなるとダメだな……。
 そんな自分を笑いながら大学へと続く桜香苑を歩いた。
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