光のもとでⅠ

18 Side Soju 01話

 今日は思ったよりも遅くなってしまった。時計を見ればすでに六時半。みんなは夕飯を食べ始めているだろう。
 神崎家のインターホンを鳴らすなり、すぐに司がドアを開けてくれた。
 突如聞こえてきたのは翠葉のハープ。
 玄関に入ると、今この家に集っている人間たちが勢ぞろいだった。
「何をして……?」
 ただハープを聴いている、という感じではない。
 空気が重い。それに、翠葉が奏でている音がいつもと違う。
「蒼くん……翠葉ちゃん、シャットアウト機能全開中」
「またなんで……」
 今日で試験が終わり、そのあとは病院で定期検査を受けたはず……。
 テストの出来が悪いくらいで落ち込むとは思えない。だとしたら、検査結果が悪かったのかっ!?
「湊さんっ、検査結果は!?」
「検査結果はいつもと大して変わらないわ。けど、検査前と検査後、何か違っていたのは確か」
 湊さんに続いて栞さんが口を開く。
「私もここまでひどい状態は初めて見たわ」
 客間のドアは開けられているものの、こちらの会話も人間がいることすら翠葉は気づいていない。
 "気づいていない"というよりは、"視界に入れていない"。
「誰が話しかけても肩を叩いてもだめなんだけど」
 海斗くんが言うと、司が言葉を足した。
「目の前に座って視線合わせようとしても無理。なんなのあれ……」
 それが何かは答えることができない。けど、それくらいじゃ今の翠葉の視界には入れないことは知っている。
 ここまでひどいのは過去に一度しか見たことがない。
 ちょうど一年前のこの時期。一度も通うことなく光陵高校を退学したときだ。
 それに匹敵するほどの何かが翠葉に起こったのだろうか。
 空ろな目をした翠葉の前まで行き名前を呼んでみた。けれども、呼びかけに応じはしない。
 肩を叩いても揺さぶってもとくに反応があるでもなく、演奏が途中で止まったり揺らいだりするのみ。その目には何も映していなかった。
 何があったんだ……。俺はまた翠葉を守ってやることができなかったんだろうか。
 たまらなくなって翠葉を抱きしめた。
「ごめん、翠葉――」
 抱きしめたことにより、ハープの演奏が途絶える。
「もういいから。こんなふうに演奏しなくていいから」
 もう一度翠葉の目を覗き込む。と、目の焦点が合った気がした。
「すい、は……?」
 言葉も耳に届いたらしく、突如目に涙があふれ出す。
「蒼兄っ――」
 翠葉はハープを放り出し、俺に泣いて縋ってきた。
「何があった?」
 訊くと、少し間を置いてから、
「大丈夫……。ちゃんと自分で消化できる」
 こう答えるときは何も話してくれない。
「話ならいつでも聞くから……」
「ありがとう……」
 しがみつく手に力だけがこめられる。そして、胸もとでか細い声を絞り出した。
「蒼兄は……蒼兄だけはずっと側にいて――」
 と。
「いるよ……。ずっと側にいる。頼まれなくても側にいる」
 その言葉に安心したのか、一瞬にして翠葉の体から力が抜けた。
「翠葉っ!?」
 すぐに湊さんが部屋に入ってきて翠葉の状態を確認する。
 一通り診てから、
「大丈夫よ。ただ気を失っただけ」
 言いながら、翠葉の目から流れる涙を拭き取ってくれた」
「すみません、ありがとうございます……」
 翠葉を抱き上げベッドに寝かせるも、意識はないはずなのに閉じた目から涙が次々とあふれる。
 いったい何があったんだ――。
 わざわざ、「自分で消化できる」と口にするほどの何が……。
 その場の空気が動く気配はなく、自分から振り返った。
「すみません、みんなご飯は?」
「まだなの」
 栞さんが答えてくれた。
「俺はもう少しついてるので、みんなは先に食べててください」
「じゃ、そうさせてもらうわね」
 と、栞さんがその場を仕切り、ドアを閉めてくれた。
 煌々とついた照明を常夜灯に落とし、眠っている翠葉の手を取る。
 細くて白い華奢な手――。
 翠葉、今度はこの手に何を抱えた?
 心が壊れる前に教えてくれ。もうこれ以上何も抱えなくていいから……。
 明日には無理にでも笑うのだろう。
 そうやって独りになろうとしないでくれ。いつでも側にいるから。
 翠葉の涙を拭うと、自分の頬を涙が伝い落ちた。
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