光のもとでⅠ
 その日の帰り。
「蒼兄、ゴールデンウィークに佐野くんたちのインターハイ予選を見に行くことになったよ」
「……幸倉運動公園?」
「そう。二十九日に佐野くんと海斗くんの試合があるの。四日の午前には藤宮先輩の弓道の試合」
「今、弓道場の近くは藤がきれいに咲いてるよ」
 幸倉運動公園は家の裏にあると言っても過言ではない。
 蒼兄が毎朝走りに行く運動公園で、去年私が倒れた場所でもある。
 かなり広い敷地面積に充実した施設が整っている。
 公園内には屋内施設として大体育館、小体育館、多目的ルーム、トレーニングルーム、ジョギングコース、柔道場、剣道場、弓道場を併設した巨大な体育館があり、その隣には屋内プールがある。
 屋外ならば、陸上競技場だけではなく、サッカー場、ラグビー場を兼用、三心円形式とした四百メートルを八コース、全天候型舗装のトラックを持つ。
 そのほか、野球場と砂入り人工芝テニスコート六面、壁打ちボード全天候型二面。当然、夜間照明設置。
 うちから歩いて三分ほどで敷地内に入れるものの、体育館までは歩いて十五分ほどかかる。
 ちょっとしたお散歩にはもってこいの場所だし、緑が多くて好きだけど、私が行く場所は限られる。
 人の出入りが激しい体育館や陸上競技場近くには近づかない。
 同級生に会わないようにそれらの施設を避けると、芝生広場や花壇が多いところばかりになる。だから、弓道場近くに藤が咲いていることなんて知らなかった。
「藤と言えば……今、一、二年棟と三文棟の間にある中庭がとてもきれいなの」
 先日飛鳥ちゃんとお弁当を食べたときのことを思い出す。
「あぁ、この時期は花盛りだな」
 蒼兄も思い出したかのように笑った。
「ねぇ、蒼兄……恋ってどんな?」
 飛鳥ちゃんや佐野くんのことを思い出して訊いてみた。
 すると、運転席の蒼兄が手に持っていたブラックコーヒーを落とした。
 すぐに回収したので、それほど零れてはいないけれど……
「せっかくの白いシャツが茶色くなっちゃったね。ブラックだからベトベトはしないかもしれないけれど……。おうちに帰ってすぐに染み抜きすれば取れるかな?」
 助手席からハンカチを差し出すと、蒼兄が私を見たまま固まっていた。
「蒼兄?」
 ――プップー。
 後続車に催促されてはっとする。
「蒼兄、青っ! 信号、青っ」
 急いで発進するも、
「……何? 誰か気になる人でもできた?」
 蒼兄はシャツの汚れを全く気にしていなかった。
 なんて気の毒なシャツだろう……。
 しょうがないから私が拭くことにした。
「そんなのどうでもいいから」
 と、拭く手を止められる。
「でも、この白いシャツよく似合うのに……」
「シャツの話は置いておいて、翠葉、好きな人できた?」
 真面目に訊かれる理由がわからなかった。
「私じゃななくて……蒼兄、内緒だよ? 佐野くんがね、飛鳥ちゃんのこと好きなの。でも、飛鳥ちゃんは秋斗さんが好きで、それを知ったうえで佐野くんは飛鳥ちゃんに告白して断れて……ということが球技大会の日にあって、なんとなく訊いてみただけ」
「なんだ……そういうことか」
 全身から力が抜けちゃったような声で言われる。
「なんかね、それを見ていてちょっといいな、っていうか……心がほんわかあたたかくなったの。だから、恋をしている人はどんな感じなのかなって思っただけ」
 もし、恋をしたらどんな気持ちになるのだろうか、と。
 それは小説で読むような、そんな言葉に表せるものだろうか。
「そうだなぁ……。たぶんさ、その人が側にいれくれるだけで嬉しかったり、幸せだったりするんじゃないかな。で、あまりにも自然で当たり前と思っていると、気づいたときには失っている、とかね」
 なんだか小説に書いてあることとは少し違う意見だ。
 小説には甘く切なく、夢のように幸せな言葉がたくさん並んでいる。でも、それを見たところで形容詞のようにしか捉えられない自分がいた。
 唯一、こういうのだったらいいな、と思った言葉は――。
『恋した瞬間、自分を取り巻く世界がキラキラと光り出した』。
 それは恋をしたときの気持ちではなくて、自分の変化のようにも思う。
 "ドキドキ"するとか、"胸が高鳴る"とか……。そういうのはたくさん種類があるような気がする。
 だって、先日の球技大会でも、私はすごくドキドキしていた。心臓がフル稼働しているんじゃないか、と思うくらい。
 あんなことは初めて。
 でも、スポーツ観戦のドキドキと恋のドキドキはきっと違う。
「蒼兄の言うそれは家族に似ているね。いつも側にいてくれて、それが幸せで嬉しい。でも、当たり前のようでそうでもない。両親に大きな感謝をしたいときにはもう他界している、とか」
「……そういう本でも読んだ?」
 私はクスリと笑ってコクリと頷いた。
「でもね、その本を読まなくてもわかってたよ。家族がいなかったら、私の人生の真っ白のままだった。それに――家族といつも一緒に過ごせることは絶対に当たり前じゃない……」
 死んだら一緒にはいられない。病気で入院しても離ればなれだ。
「翠葉は色んな意味で、人より多くの人生経験を積んでるな。俺よりもずっと達観してる気がする」
「そんなことないよ。私、蒼兄よりも七つも年下だし」
「俺だってまだ二十三だ」
 言われて、入学式の日の仕返しであることに気づく。
「ところで……その試合ひとりで行くのか?」
「ううん、桃華さんが一緒。あと、試合が終われば海斗くんも合流できるって言ってた」
「そっか……二十九日ね。その日なら都合つくな。俺も一緒に行っていい? 彼の走り、見たいんだ」
 あ、佐野くんの……。
「佐野くん、喜ぶね。大丈夫だよ。明日、桃華さんから連絡あるからそのときに話しておくね」
 そんな話をしていると、家の前に着いていた。
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