君に届くまで~夏空にかけた、夢~
菊地先輩は「くっ」と声を漏らしたあと、木の幹を拳で殴ったのだ。


人影がゆらりと動く。


よろめいたように見える。


何……やってんだよ。


ボールを掴む、投げる、大事な右手じゃねえか。


「何してんだよっ……」


突発的だった。


誉がそこに寝ている事も忘れて、おれは豪快な音を立てて網戸を開け放った。


その音に弾かれたように顔を上げたのは、やっぱり菊地先輩で、間違いじゃなかった。


菊地先輩を見て、胸を突かれた。


大粒の目が、くるりと光る。


「……ひ……らの……?」


水辺に浮かぶ小舟のようにぽかんとした声を出した彼は、泣いていた。


「……何、してんすか?」


菊地先輩としっかり目が合う。


やっぱり、泣いている。


でも、それを上手に笑ってごまかして、菊地先輩は笑った。


「何って……脱走の練習、かな」


「何言ってんすか……だって、今」


泣いてたじゃないっすか。


「おれ、脱走兵だから。練習、練習」


そう言って笑った彼の目に月明かりが降って来て、キラキラ輝かせる。


涙が、月光を弾き返している。


「何言ってんすか。何、言って……菊地先輩!」


おれを見つめ返すその大粒の目は、何か文句でも言いたげな、強烈なものだった。


おれたちは口を真一文字に結んだまま、しばらくの間見つめ合った。


いや、もしくは、睨み合っていたのかもしれなかった。


でも、おれからは何も突っ込む事はできなかった。


先に沈黙を破ったのは、向こうだった。


「平野……あの、あのな」


「え……あ、おす」


「おれ」


と菊地先輩が口を開いたその絶妙なタイミングで、


「ふざけんなよー」


と誉が大きな声を出した。


別に何も悪い事はしていないのに、心臓がバクバクした。


「わり、起こしたか?」


と振り返って、がっくりした。
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