エスメラルダ
 そう言うと、アユリカナはエスメラルダの手を取り、霊廟の奥深くへと導いた。
 春だというが、石の床は冷たい。
 そして此処には魔法が働いている。
 幾ら防腐処置が施されているとはいえ、遺骸に熱はよくない。故に、春の肌寒さ以上に寒い。
 ぺたぺたと、素足が音を立てる。
 アユリカナは、緊張していた。
 レーシアーナを娘に迎えたときには、霊廟への礼拝にアユリカナは立ち会わなかった。
 若い夫婦が二人で、先祖の霊に拝したのだ。
 だが、エスメラルダは次の国母になる娘だ。
 自分と同じく。
 それ故、エスメラルダには儀式が待っている。アユリカナが乙女の頃に、先代の王妃ルーニャによって導かれたように、今度はアユリカナがエスメラルダを導かなければならない。
 たとえエスメラルダが石女であれど王妃という地位を廃される事はない。
 それがメルローアの掟。
 もしエスメラルダに子供が生まれなければレーシアーナの子供が次代となるであろう。
 だが、国母と呼ばれ、その子供の妻を導くのはエスメラルダの役目だ。
 そして、もし仮にフランヴェルジュが他の女性との間に子をもうけようとも、その子供が跡継ぎとなる事は決してない。
 先々代の王、リドアネは沢山の妻をもっていた。その時、『妾妃』という言葉がメルローアにも生まれたのであるが、子を成せどその夫人達の名前が歴史に残る事はない。
 『妾妃』という言葉はあくまで表向きのものであってその存在は認められた物ではないのだ。
 神殿の記録に残る名前は王妃一人であり、王妃の子供以外は生まれを記録されない。
 だからエスメラルダは『妾妃』であってはならなかったのだ。
 何故そうまでして一人の妻を重んじるのかアユリカナにも理由が解らないが、メルローア建国以来、他国にはありえない機構であるが確かに存在してきた。
 尤もこの機構を知る人間は数が限られており、今はアユリカナとフランヴェルジュしか知らない。
 歴史には、機構の事ではなくただの事実として記されるはずの事。
 ふぅ……とアユリカナは息を吸い、吐いた。
 そして、防腐処理が施された王達の遺骸を見ながら、その王の時代の話を始める。
 それは昔話であった。
 つい最近薨去したレンドルから遡り、物語は少しずつ過去へ過去へと広がっていく。
 果てしのない物語。
 だが、それだけのものでは決してなかった。
 遠い過去の物語と共に、エスメラルダに吹き込まれたのは膨大な量の『知識』と『知恵』。
 頭がそれを理解するのには少しばかり時間が掛かった。
 本当にアユリカナが伝えたいものに気づいたのはレンドル、リドアネと続きリドアネの父、クーシュナの話を聞いているときだった。
 気づいたときには戦慄が走った。
 婚姻という一大セレモニーの前に緊張をしていたエスメラルダは、しかし、一時的に自分の婚姻をも忘れた。
 忘れ、アユリカナの話に耳と心の全てを傾け、エスメラルダは義母になる女性の話を理解しようと懸命になった。自分のものにしようと必死で努力した。
 聞き逃すには、余りに重い内容。
 王の時代の話は、お妃教育で習った。だが、それは男達から見た歴史だった。
 アユリカナが伝えているのは、女達から見た歴史だった。
 嫁いでは夫を支え、子供を産み育て、礎となった女達の歴史。
 それは本来短時間で語られるべき事ではない話であろう。
 一生をかけて取り組む事であるとさえ、エスメラルダは思う。
 だが、エスメラルダが始祖王バルザの遺骸の前に辿り着いた時、アユリカナは言ったのだ。
「これが全てであり、欠片の一つでもあります。貴女が生きているうちにわたくしも過去となり、貴女は新しい歴史を紡いで行く。そして子供の妻にわたくしがしたように歴史を継いでいく事でしょう」
「アユリカナ様、わたくしはちゃんと学びたいと思います! 歴史の授業では習わなかった事が沢山……!!」
 大きな声を上げそうになったエスメラルダを、アユリカナは微笑みで制する。
「口伝はこの場で、婚姻の朝、ただ一度きり。大丈夫、貴女はわたくしの話した歴史を決して忘れません。一言一句違わず、次の代につないでいけることでしょう」
 エスメラルダは混乱した。
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