エスメラルダ
「そしてエスメラルダの幸せだ!!」
 フランヴェルジュは満面の笑顔で言った。
 二人はグラスを目の高さまで持ち上げると、一気にあおる。
 ブランシールは心の中で唱える。
 大丈夫。大丈夫。大丈夫。
 自分に言い聞かせないと気が狂いそうだったが、誰よりも親しく、誰よりも───レーシアーナよりも───愛する兄に『そのこと』を全く話せないのは承知していた。
 罪人が一番痛みを覚えるのは良心の呵責だろうとブランシールは思った。
 全ては夜が明けてから。
 そして、それから……ああ、まだ先の話だ。
『その時』はまだ来ない。
「夜が明けると、俺が演説するだろう? この国に王妃を戴く事を神に感謝する演説って言われてもなぁ。言ってみれば国民と各国の貴賓に惚気話をする訳だろう? 真面目な演説ならばもう慣れたのだがな、恥ずかしいと思う。うん、かなり恥ずかしい。歴代の王の婚姻の朝の演説の記録を閲覧したのだが、父王の演説はすごかったぞ。母上を妻にすることで完璧に有頂天になっていたみたいだ。読んでいるこっちが恥ずかしくなった」
「僕は国王や王太子でなくて良かったと思います。全国民の前で壮大な惚気話など僕には出来そうにありませんね」
 言って、ブランシールはまたワインをあおった。そして、ワインをまた注ぐ。
 空になったボトルを、ブランシールは足元に置いた。
 それを見て、フランヴェルジュはぎょっとする。
 鐘が鳴るまで自分が惚けている間に弟は何本ワインを開けたのだろう?
「お前、明らかに飲みすぎだぞ」
 嗜めると、ブランシールは笑った。
「だっておめでたいですから。兄上ももっとお飲みになって下さい。結婚ですよ?」
「お前はレーシアーナとの式の時も、飲んでいたな。そういえば」
 フランヴェルジュは呆れたように言う。
 が、ブランシールは首を傾げるのみだった。
「俺はそんなに飲まんぞ。誓いの時に、ホトトルの水を口移しで飲ませるだろうが。水の甘露さでなく酒臭さをエスメラルダが覚えるのは嫌だ」
「……兄上の頭の中は本当に、エスメラルダで一杯なんですね」
 今度はブランシールが呆れる番だった。
 花婿という物は、祝い酒で普通は程よく出来上がっているものではなかろうか?
 それをまぁ。
 エスメラルダ。エスメラルダ。
「……やきもちを妬いてしまいそうですよ。兄上」
「お前も大事だぞ」
 フランヴェルジュは即答する。
 その顔があんまり真面目なので、ブランシールはまた泣きたくなった。
 それなのに、フランヴェルジュはその真面目な顔でこう続ける。
「で、大事な弟殿よ。全国民どころかスゥ大陸中に俺は惚気を演説というこっぱずかしいやり方で発信しなくてはならないわけだが、その可哀想な兄になにか慰めの言葉はないのか?」
「好きなだけ惚気るがよろしい」
 ブランシールの答えが投げやりになっているのは仕方がないといえよう。
 もう表情や言動が全て惚気に思えるのだからスゥ大陸どころか全世界に惚気れば良いのだ。勝手にすれば良い。
 その後に何が起きるかも知らないで。
「冷たいぞ、ブランシール」
「そうですか? 僕、結構体温が高いんですがね。褥を共にした女性には熱いといわれますが」
「同衾はレーシアーナだけにしておけ」
「今はレーシアーナだけですよ」
 ブランシールは嘘をついた。
 まだ身体がレイリエを覚えていて、そして欲していて、飢えているというのに。
 だが、フランヴェルジュは安心した顔をする。その顔を見られただけでも、ブランシールはほっとした。

 本当に一番抱きたい人は……。

 ブランシールの心中など知らぬフランヴェルジュは呑気に言葉を紡ぐ。
「まぁ、演説はいい。多分勝手に言葉が出てくるだろう」
「兄上はいつもそうですよね。草稿を用意なさらない」
 ブランシールが、フランヴェルジュは生まれながらの王だと思うときの一つにそれがある。
 今までフランヴェルジュは一回も演説の草稿を作った事がないのだ。
< 142 / 185 >

この作品をシェア

pagetop