エスメラルダ
第十九章・真紅
 『白華の間』に向かう宰相レーノックスの顔は柔らかな笑みを湛えている。
 善人にしか見えない老人、白い髪を後ろでまとめ、整えられた口髭と顎鬚を持つ、かつては美丈夫であった事が容易に想像出来る男、それがレーノックスだった。
 しかし、レイリエに狂い、彼女に触れる事を最大の喜びとしていたレーノックスは、本当は憤懣やるかたない。
 優しい笑みをはいた唇が微かに震えてはいるが、口髭に隠されており、幸いにも人目にはつかなかった。
 本当に王妃様に相応しいのはレイリエ様であるというのに。
 それがレーノックスの想い。
 レイリエがメルローア滞在中、何度も目どおりを願い出、それは許可された。
 異国での暮らしは寂しいと、よよと涙を浮かばせるレイリエが、噂通りに愛の為にメルローアを出奔したとはレーノックスには考えられなかった。
『お前と会えないのが何よりも寂しい事です』
 そのレイリエの言葉はまさしく麻薬のように、レーノックスを酩酊させる。
 人の妻、しかも隣国の王太子妃となってしまったレイリエ。
 しかし、彼女に本当に相応しいのはメルローアの玉座だとレーノックスは思ってしまう。
 もう、それは叶わぬ夢だ。
 既にレイリエはファトナムールの王太子妃なのだから。
 それでも、いや、だからこそ、レーノックスはエスメラルダが憎い。
 エスメラルダさえいなければ、レイリエは幸せだったはずなのに。
 エスメラルダさえ。
 レイリエがこの国に君臨する事が叶わないのであれば、レイリエを泣かせたエスメラルダだけでも、せめて、貶めてやりたいと思う。
 レーノックスはその機会を淡々と待つであろう。
 だが、宰相として、今日の華燭の典を成功させなくてはならないことも解っている。
 複雑な気分であったが致し方ない。
 神殿の廊下を、沢山の足音がこだまする。
 レーノックスの後ろには高位の文官達が続く。その数二十名。
 今頃、武官達は将軍に引き連れられ、『紅華の間』のフランヴェルジュを訪ねている筈だ。
 それが婚姻のしきたりなのだから。
 花嫁に額づく文官、花婿に額づく武官。
 忠誠心などもってはいないが、レーノックスは仕方なく従うまでだ。
 宰相という地位はレイリエが彼に与えたもの。だから守らなくてはならないと、レーノックスは深呼吸した。
 そして、大きな大きな扉の前に辿り着く。
 白い大理石の重い扉は、花の彫刻が施されており、大変美しい。
 扉の前に立っていた二人の巫女が、レーノックスと彼が率いる文官達に頭を下げた。
 レーノックスは慇懃に彼女らを見やり、そして軽く頭を下げる。
 此処は神殿。彼女達のテリトリー。
「目通り願い奉らん! 未来の国母たる御方、玉座に昇られる乙女よ、扉を開けたまへ!! 我らは筆を持ってメルローアを支える者共にあれば!!」
 朗々とした声を、レーノックスは張り上げた。
 扉はすぐに開けられた。
 重たいはずの扉は、しかし、音も立てずに開きそして。
「「おおお」」
 レーノックスの後ろに控える者達が声を上げた。
 レーノックスは扉の前で立ち止まり、そして慌てて入室する。
「失礼致します、麗しき我等が王の花嫁よ」
 口上を先に述べてから入室するのが礼儀。
 だが、『白華の間』の中央にある椅子に座り、膝の上で上品に小さな手を重ね合わせて微笑む花嫁は、恐ろしいまでに美しく、しきたりなどが思わず頭の中から吹っ飛んでしまうほどだった。
 レイリエ以外の女に、目を留めたことなかったレーノックスですら、その目を奪われた、その美貌。
 否、美貌などと言う言葉で片付けてはならない。
 そんな平坦な言葉で表しきれるものではない、何か。
 それは、レイリエがその生涯において決して纏った事のないものだった。
 愛するものに求められるという、幸福。
 それは至福といって構わない。
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