エスメラルダ
 これでは、逃げ出す事など出来やしない。
 では一体どうしたらいいのだろう?
 悶々としながら湯浴みを終えると、アユリカナが『真白塔』に戻ってきた。
 喪服を着て、エスメラルダはアユリカナを出迎えたのだが、かの人の白磁の顔には隠しようのない疲労の色が在る。
「今夜が峠ですって」
 ぽつんと、アユリカナが言った。
「……御側についていらっしゃらなくとも?」
 エスメラルダの問いにアユリカナは首を振る。
「駄目。駄目よ。わたくしはどちらに転んでもきっと気を失ってしまうわ。今、は駄目。フランヴェルジュが頭を冷やしてくれたなら良いのだけれども。エスメラルダ、次の王妃である貴女はよく覚えておかなくてはならないことです。王族が皆我を忘れて恐慌に走れば、民はうねりに飲み込まれる。それはあってはならないの……」
「アユリカナ様、わたくしは……」
 何を言おうとしたのかエスメラルダには解らなかった。
 ルジュアインの事がある限り自分は此処にいなくてはならない。だが、しかし。
 困ったような顔で言葉を失った少女の頭を、アユリカナは優しく抱き締める。
 エスメラルダの鼻腔に血の臭いと薬の臭い、そして『砂上夜夢』の香りが沁みた。
「貴女の混乱は想像出来ますよ、可愛い娘。ですが、貴女には可哀想だけれども、わたくしは貴女に逃げ道を用意するつもりはありません。可愛いエスメラルダ。いい子だから聞いて頂戴。わたくしも、レンドルの妻になるのが怖かった。味方はレンドルとアシュレだけだったわ。色々とあったの。色々とね。わたくしは人を不幸にするしかないって思ったわ。わたくしとの婚姻がレンドルにもたらすダメージを考えると、怖くてたまらなかった」
 エスメラルダは驚いたように目を見張る。
「でもね、どんな中傷を叩かれようが……下らない女を妻にした、位ならまだいいわ、不作の年などはわたくしの事を神がお怒りだと言う馬鹿もいた……でも、わたくしの過去にどんなにおぞましい醜聞があろうが、レンドルにとってはわたくしがいないという事に比べたなら、なんと言うこともなかったのよ。レンドルはわたくしを守ってくれた。力の限りでね。わたくしは必死にそれに応えようとした。結果的にリドアネ王の御世より治世は安定したわ。そしてわたくし自身も、民にも貴族にも外国人にも、メルローアのレンドルの妻として認められた」
「アユリカナ様……」
「貴女は、主がレーシアーナを奪い、そしてレイリエを死なせ、ブランシールをして重傷を負わせたとでも思っているのかもしれないけれども、全て人為的なものよ。神殿のシャンデリアには仕掛けがしてあったそうだわ。ブランシールは、レイリエが犯人である証拠でも握ったのではないかしら?」
「し……かけ?」
 それではレーシアーナは殺されたというのか。この自分、エスメラルダを殺めんとした者の手によって。
「そう、主ではなく、全て人の足掻き。貴女の所為ではないの」
「でもランカ……アシュレ様は……」
「事故よ。ヴェールなどなくとも式はあげられるのにね。彼の融通の利かなさが起こした事故。吹雪の中馬車を出して死なないほうがおかしいわ。エリファスはメルローアの中でも道路事情が悪い。自然を自然のままでおいておこうという意識が高かったから。だから、貴女の所為ではないの」
 ぺたん、と、エスメラルダはその場に座り込んだ。
 では、わたくしは幸せを望んでも良いのだろうか?
 自分の幸せを。
 その時、上の階でけたたましい泣き声が響いた。
 ルジュアインである。
 乳母もまた、『真白塔』に部屋を与えられたのであった。
 エスメラルダは座り込んだまま天井を見詰めていた。何かに呪縛されたように身体が動かなかった。
「行っておやりなさい。わたくしは湯浴みをして、眠ります」
 つい、とアユリカナはエスメラルダの肩を押した。
 エスメラルダの身体の呪縛がその途端に解ける。彼女はよろよろと立ち上がると、アユリカナに礼をした。
「早く行ってやりなさい。明日からは忙しくなりますよ。宣戦の書は議会が用意しました。戦の準備が始まります。きっと、忙しくなるでしょう」
< 172 / 185 >

この作品をシェア

pagetop