エスメラルダ
 それにブランシールは変わり者でもあった。侍女を側に起きたがらない位はまぁいい。だけれども兄を崇拝する姿は同性愛者で近親相姦者なのではないかと噂が立った事もある。幸いな事にブランシールとベッドを共にしたやんごとない淑女達がその噂を取りあえずは払拭してくれたが。
「ねぇ、レーシアーナ、話して下さらなければ駄目よ? 巷の噂話などで計りたくないのよ、ブランシール様の事」
「ランカスター様の遺産でなんとかなるのではなくて?」
 取りあえず、レーシアーナは言ってみるが、エスメラルダはかぶりをふった。
「非の打ち所がない、完璧な王子様なんですって。洗い立ての白い布のように問題点は何処にも見当たらないというのが報告よ。たまに兄君にあたられるフランヴェルジュ様に下町に引っ張っていかれるそうだけれどもとても静かにお酒を召し上がる方なんですって。飲みすぎずはしゃぎもせず、それに……春をひさぐ女達には指一本触れないそうよ」
 その言葉を聞いた途端、レーシアーナの瞳から涙がぽろぽろと滴り落ちてきた。
「良かった、ブランシール様、良かった……」
 時折、安香水の匂いをぷんぷんさせて帰ってくる自らの主に、レーシアーナはどれだけ心配した事であろう。娼婦達などを相手にしていてはどんな病気にかかるかしれないと。
「泣かないで、レーシアーナ……」
 こくこくとレーシアーナは頷いた。だけれども、嗚咽はなかなか止まらない。
 エスメラルダはハンカチーフをレーシアーナに渡し、優しく背中を撫でてやった。
 レーシアーナはその手が心地良いと思う。ブランシール付きの侍女になってかなり経つが、その間、人の温もりとは縁のない生活をしていた。皆、腫れ物に触るようにブランシールとレーシアーナを扱うのである。ブランシールは意に介さなかったし自分も平気だと思っていた。
 だがそれはなんという誤りであった事だろう!!
「人には……人の温もりが必要ね」
 そしてレーシアーナは思い出す。ブランシールにはフランヴェルジュという温もりがあったこと。淑女達と滑り込むシーツの中にもあったかもしれない。だが自分には何もないのだ。何も、何も!
「……午餐を、ご一緒するわ。そしてわたくしが知るブランシール様の事をお話するわ」
 涙で濡れた頬。だけれども、レーシアーナは頭をもたげはっきりと言った。
「あの方はとても孤独なお方なの」
 銀器の触れ合う音が微かに響く食堂でレーシアーナは言った。それは囁きといった方が良いのかもしれない。広い食堂で、その言葉は吸い込まれていきそうな程に力なかった。
 レーシアーナの目にも生気は窺えない。これが本当に自分に向かって
『不敬だわ!!』
 と叫んだ少女だとは思えない、と、エスメラルダは思った。泣き疲れた所為かもしれない。
 だがしかし。
「ブランシール様は幼少のみぎり、お身体が大変弱くあらせられたの。でもフランヴェルジュ様の事をとてもお慕いなさっていたわ。フランヴェルジュ様はブランシール様が望んでも見る事の出来ない『外』の象徴であらせられたのよ」
 ほうっとレーシアーナは溜息をつく。
「やがてブランシール様は自分も外に出たいと仰るようになられたのだけれども、勿論周囲は反対したわ。国王陛下もよ。だけれどもブランシール様には味方が二人、いらしたの。それがフランヴェルジュ様と王妃様よ」
 エスメラルダは懸命に耳を傾ける。ブランシールの過去を聞きたい訳ではなかった。だがこれが今のブランシール……メルローア王家に迫る事だと思えば一言も聞き逃す訳にはいかなかった。
「フランヴェルジュ様はお外に出られるようになったブランシール様に色々な事をお教え遊ばされたわ」
「まるで見てきたようにいうのね」
 エスメラルダが口をはさんだ。彼女の欲しい情報はレーシアーナ自身が知っている情報だ。他人から伝えられた事の伝言ではない。
 だけれどもレーシアーナは唇だけで笑う。
「見てきたのよ。私はお外に出られないブランシール様の『ポニー』としてレイデン侯爵家から買われたの。私はまだ五つだったけれども体格はすこぶる良かったの。それに比べるとブランシール様の華奢さと言ったら……」
「待って『ポニー』ですって? それはどういう意味? レーシアーナ」
「文字通り『ポニー』よ。父上が考案なさって木馬を差し上げると国王陛下に奏上なさって、献上されたのがわたくし。陛下達は何もご存じなかったのだけれども、わたくしは鞍を乗せられ、他の馬具もつけられたわ。そうしてブランシール様には鞭が与えられたの。馬を叩くように。でもブランシール様が叩いたのはわたくしではなかったわ」
 ふふ、とレーシアーナは笑う。今度は唇だけの笑みではない。何処か遠くを見るように笑った。
「私を『ポニー』として連れてきた父上達に、ブランシール様は鞭をあてられたわ。泣きながら。そうしてフランヴェルジュ様が馬具を取り払って下さったの」
 エスメラルダは寒気を覚えた。信じられなかった。一人の少女を『ポニー』として扱う人々が。それは許されざる事だ。人として、それは許されざる事だ。
「あの時、わたくしは一生をこの方に捧げようと思ったの。ずっとお側において下さいとお願いしたわ。そうしたらブランシール様は微笑んで下さったの」
 そんな過去があるならレーシアーナがブランシールを慕う理由が解った。慕わぬ方がおかしいであろう。
 だがブランシールは? どんな思惑でレーシアーナを側においているのであろう。
「ご免なさい。くだらない昔話をしてしまったわね」
 レーシアーナの言葉にエスメラルダは「いいえ!」と叫んだ。
「貴女の無償の忠誠心の理由が解ったわ。ブランシール様はとても良いお方ね」
 その言葉に、レーシアーナは心からの微笑みをエスメラルダに投げかけた。十九歳らしい健康な笑みを。
「そうなの。本当に良いお方なのよ。お身体だってちゃんとお鍛えになって立派になられたわ!! 非の打ち所がない方よ」
 エスメラルダは苦笑した。
 可愛い人。ランカスター様がお気に召して調べさせたのも解る気がするわ。
「でも何故『孤独な方』なの? わたくしにはそれがさっぱり解らないわ」
 エスメラルダの言葉に、レーシアーナは顔を伏せる。
「あの方にはフランヴェルジュ様以外見えていないの。周囲にどれだけ人がいようとブランシール様はフランヴェルジュ様以外見るおつもりはないのよ。でもフランヴェルジュ様はブランシール様以外の人間にも微笑みかけられるわ」
 それはなんと悲しい生き方だろう!! だけれども、それ故に自分が灰にした手紙を書いたのだと解る。
「貴女の事もご覧になっていると思うわ、レーシアーナ」
 エスメラルダは優しく言った。
「わたくし宛ての手紙は余人が見てはならぬものだった。だから灰にしたのだけれども……ねぇ、レーシアーナ、貴女を信頼しなさっているから使者として立てられたのだわ」
 こくこくとレーシアーナは頷いた。


 結局、その日、ブランシールは午餐にありつけなかった。
 レーシアーナが戻ってきたのが夕方であったためである。
 携えてきた返事は否であった。
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