エスメラルダ
 『花』が何の事か、エスメラルダには最初、解らなかった。だから湯浴みの後、何枚ものタオルで髪を包み、乾いたその髪に香油を擦りこんでいるマーグに聞いたのだ。
「『花』をね、ある殿方から貰い受けたと言われたの。おかしいわよね? わたくし、花なんか摘んでないわ。わたくしはランカスター様以外の方の為に花冠を編んだりしないわ」
 マーグは顔色を変えた。櫛を持つ手が止まる。
「エスメラルダ様。その方はどういうご身分の?」
「教えないわ、マーグ。家柄によって『花』の意味が変わると言うのならともかく。教えられないお方なの。醜聞に塗れさせてはいけないわ。わたくしと何か噂でも立てばレイリエ様が攻撃してくるでしょうし。レイリエ様は南の温泉地へ行かれたのよね?」
「レイリエ様は確かに温泉地にお出かけです。モニカでございますよ、エスメラルダ様。それより、花を摘んだのはどなたなのです?」
 マーグの剣幕にエスメラルダはくっと顔を上げた。
「言えないと言ったでしょう? 鼻をつまむ? そんな失礼な事はされてなくってよ。マーグ、お前と話していると混乱するわ。わたくしは『花』の意味を聞いているの」
「……メルローア宮廷でよく使われる隠語でございますよ。『花を摘む』が口づけ、『花を咲かせる』が相手の心を掌握したという事、『花を散らせる』が……その……性愛の意味でございます」
「……確かに一輪」
 エスメラルダは唇を噛んだ。
 初めての口づけ。
 口付けとは唇を重ね合わせることだとばかり思っていた。だけれども、それだけではないと知ったあの夜、舌が甘いと知った夜。
「誰がエスメラルダ様を穢したのです!? その家の者に正式な詫び状を書かせなくてはいけません! 私のお嬢様がそのような目に……さぞ、恐ろしかった事でしょう!」
 マーグは叫ぶが、エスメラルダは首を左右に振った。
「マーグ、わたくしは穢されてなどいなくってよ。恐ろしくは……あったかもしれないけれども。でも、お前、忘れているのではない? ランカスター様がお亡くなりになられた事。わたくしは寡婦にすらなれなかった。ランカスターの姓を名乗ることは許されなかった。解る? わたくしは何の身分も持たない。ローグ家を継いだ訳でもない。ただあの方が十分な財産を残して下さったというだけ」
 マーグは口ごもった。
「さぁ、髪を梳いて頂戴。遅刻したらレーシアーナに怒られるわ」
 今日はレーシアーナが初めて主催する茶会の日だった。
 敵達が美しいドレスで着飾りながらレーシアーナを侮辱しようと集る日だ。
 だが、レーシアーナはその娘達の上に女王として君臨せねばならない。王弟に是非にと望まれ、来年の春の善き日に華燭の典を挙げることが決まった娘として。
 婚姻の為の準備は滞りなく進んでいるという。日にちが問題だが天候と相談して最初の鍬入れの一週間後にしようと決まった。
 鍬入れの日には、国王自らが鍬を手に取り、豊穣を願い最初の一撃を硬い地面に突き立てるのだ。
 その日は皆、誰も彼もが忙しい。貴族達も領民の前で鍬入れをするのが慣わしであるし、農民達は儀式が終わった後必死で田畑を鋤く。一日で鍬入れが終わるはずも無く何日もかかる。だけれども、その一週間後なら農民達にも疲れが出る頃合であるし、祝賀の為の休日を設ける事は良い事だと決まった出来事であった。
 エスメラルダは、緑のドレスを着た。
 ランカスターがエスメラルダに余り着せたがらなかった色である。理由は似合いすぎるから。美しすぎて怖いのだと言われた時、エスメラルダはこの人はどうかしてしまったのだろうかと思った。
 だけれども、ランカスターは緑の色のドレスを沢山作ってくれた。そして、領主達の集りや国王の訪ないには他の色でなく緑のドレスを着せた。
 緑の衣装はエスメラルダの戦闘服のようなものだった。
 長く裾を引く絹のドレスは美しかった。胸元が少し露出しすぎのような気がしたが、これが今年の最新流行であると言う。
 レーシアーナは醜聞に塗れた自分を茶会に呼んでくれたのだ。更に醜聞が広がるような真似がどうして出来ようか。流行遅れのドレスなどで彼女に恥をかかせる訳には行かない。
 エスメラルダは、彼女の戦場に向かった。
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