身を焦がすような思いをあなたに
火と風と水の関係
「来い」

朱理は、その声にも、必死で首を横に振った。

今度こそ、この人を傷つける気がして。

もうじき、こういう日が来ることは、わかっていた。朱理は、目眩に似た揺れの中で、そう思う。


この中庭で、つい先ほどまで朱理が読んでいた本が、目の前であかあかと燃えている。目を逸らしたいのに、その炎はそれを許してくれない。

「俺が来いと言ったら、すぐに来い」

鋭い視線を投げかけながら、青英が手を伸ばして、朱理の腕を捕らえた。


「触っちゃだめ」

うめくように、朱理が呟いて、その手を解こうとするけれど、青英は無視した。

「触らないで」

青英は、いつものように腕の中に、小さな朱理を抱きしめたが、今の朱理は、発火しそうなくらいに熱く感じる。

昨日の夜、こうして眠ったはずなのに。

そう思うのは、朱理も青英も同じだった。
「うるせえ。黙ってろ」

どうして、こんな状況でも、いつも通りマイペースで偉そうなんだろう、と朱理は思う。

流の進言通り、二晩のうち一晩は、青英は朱理の部屋に来て、その力の抑制に努めているはずだ。それなのに、こうして本が燃えていると言うことは、その抑制が不十分だということの証明になる。


「…青英の中の水が、減ってるのが見えるよ」

言うべきかどうか迷ったけれど、朱理はそれを言った。

「出会ったときは、溢れそうなくらいいっぱいの、冷たい水で、青英の体の中が満たされているように見えたのに」

朱理の体は震えていた。

「今では、温かい水しかない。それも、体の中に、半分もないの」

こいつ、他の人間の能力の大きさも見えるのか。青英は、小さくため息を吐いた。
「わかってるんでしょ。青英が、そんなふうになってるのは、私のせ」

「だったらなんだ」

鬱陶しいという表情で、青英はそう言い放っただけだ。

「お前が持て余してる力を、俺の力で消してるんだから、当たり前だろう。いちいち動揺するんじゃねえよ。お前が動揺すると、一層あっちーんだよ。黙って抱かれてろ」

あ、あっちい?王子の話す言葉じゃないよね、と朱理は、いろんなおとぎ話に出てくる紳士的な王子像を思い出して、心の中で呟く。

そうすると、ようやく意識が青英の中の水のことから逸れて、呼吸が落ち着いてきた。


どうして、この人でないと、私は駄目なんだろう。全然王子らしくないし、偉そうだし、すぐに私の話を遮るし。なのに、この人じゃないと、私の力の暴走を抑えられないなんて。

神様は、どうして、私にこういう運命を課したんだろう。

恨むと言うわけではなく、ただひたすらに、疑問に思う。


どれくらいの時間、そうやって青英に抱き締められていたのだろう。ぐらっと彼の体が揺れたのを感じて、朱理ははっと我に返った。
崩れるように膝をついて倒れた青英を、なんとか膝で抱きとめながら、朱理は叫んでいた。

誰か来て、青英が、と、いつもなら澄んでいる声が、悲鳴混じりに聞こえた気がして、流は顔を上げた。

窓の向こうの中庭で、一見、仲睦まじく抱き合っていた、主とその婚約者が、いつの間にか地面に崩れ落ちているのを認めたときには、反射的に扉を蹴破るようにして走り出していた。

「流ー!!」

朱理は喉を潰しそうな声で叫んだ瞬間、城の入口に流の姿を認めた。そのとき、朱理は錯乱しかけていたところを、なんとか踏みとどまったと感じた。

「青英の、水が、…ううん、体が熱い」

かすれた声を絞り出して、訴える朱理に、流は胸を痛めた。

「大丈夫ですから」

こう言う日が来ることは、わかっていた。流は、珍しく顔を火照らせて気を失っている青英を見て、冷静にそう考える。

世界を破滅に追いやると言われた朱理の力を、一族の中でいくら最強と言われていようとも、青英の力で抑えきれるはずがない。

遅かれ早かれこうなるはずだった。だからこそ、女王は「我が国を滅ぼし、世界を滅ぼす呪われた娘」と、朱理を蔑んだのだ。

流も、朱理のその力の恐ろしさを、予想してなかった訳じゃない。

ただ、朱理の育った環境、気質、行動や表情を見ていると、それを忘れそうになるのだ。


ただの、女の子じゃないか。そう、思ってしまう。

気が強いところはあるけれど、体力がなくて、華奢で、人を傷つけまいと小さくなっていて、笑うとかわいくて。

ただの女の子なら、朱理はどれだけ楽に生きて行けただろう。

考えても仕方がないけれど、涙ひとつこぼさず、ただ震えている朱理を見ていると、そう考えざるを得ない流だった。



「美砂、ごめんなさい」

朱理が、わずかに声を掠れさせながらも、しっかりと美砂の目を見つめてそう言った。

「私のせいで、美砂の大事な青英を、病気にしてしまった」

おそらく、それは事実であろうけれど、美砂は、朱理のそのまっすぐな視線を受け止めたら、もう何も言えなくなって、首を横に振るしかなかった。


それきり、沈黙が支配する青英の部屋の中、慣れた手つきで、朱理が冷水に浸したタオルを絞り、青英の額に当てる。その様子を見ると、美砂の中には、ますます話すべき言葉が見つからなくなった。

本も読まず、絵も描かず、外にも出ないで、朱理が彼の看病をしていることを、知っているから。


美砂も、滅多に寝込んだりしない青英が、すでに3日も熱にうなされて意識もないと聞けば、心中は穏やかでなかった。
朱理が青英に付き添っていると聞けば、元々看病する体力もないけれど、身重でなおさら無理のきかない自分の体を、歯がゆくも思っていた。

だけど、実際に、こうして憔悴した様子の朱理を見ると、あれこれ考えていたこと全てに蓋をせざるをえなくなった。


朱理も、体力があるわけではない。美砂も、それには気が付いていた。

幼少時から、狭い塔の中に閉じ込められて育った朱理は、体も小さいし、疲れやすい。火を操る能力のせいで、風邪こそ引かないものの、ときどき昏睡状態かと疑われるほど深く眠っている。

だから、いくらその気の強さから、大丈夫だと言い張っていても、今の朱理の心身の状態が良くないということは、すぐにわかった。


「駄目!」

朱理は、驚いてそう言った。タオルを青英の額においてすぐに、両手にはめたグローブを、美砂が引っ張るから。
「駄目なのは、朱理の方でしょう」

美砂が、穏やかな声でそう言うから、朱理は口を開いたものの、何と言えばいいのかわからなくなった。

「このままでは、城が燃えるわね?」

いたずらな笑みを微かに浮かべて、美砂は朱理の両手を取って優しく握った。

こうして青英がダウンしている今、朱理は石造りの塔に閉じ込められていた時と同じように、自分の力を制御し切れていないはずだから。

朱理は、美砂を傷つけるのではないかと指を震わせたけれど、そんな恐ろしい現象は起こらず、細くため息を吐きだした。

美砂は、朱理の格好を見つめる。

この水の国にやってきたときと同じ、生成りの地味なワンピースに、長いグローブを身につけている。それは、先日の誕生日に陽輔が朱理に送ったものだった。
「わたくしも、土の一族のひとりだもの。火を消すには、水よりも砂の方が効果的だって知ってるでしょう?」

「だけど」

「わたくしはね、体さえ丈夫なら、家督を継いだ千砂よりも高い能力を発揮できただろうって言われてたのよ。安心なさい」

朱理は、いつものように穏やかに微笑む美砂の表情を、すみずみまで見つめてみるけれど、どこにも自分への恐れや憎しみが感じられず、困惑した。


「私のこと、嫌いにならないの?」


「なれない」

それは、美砂の正直な気持ちだった。嫌いになってもおかしくないはずなのに、不思議と嫌いになれないままで、今に至っている。

「怒らないの?」

「このまま、眠らないで、食事もとらないなら、そろそろ怒るかもしれないわね」

心配そうな顔で尋ねる朱理に、美砂はくすくす笑いをもらしながら、そう答えたから、朱理は頬を赤く染めた。
「どうして?美砂は、見てもいないのに、どうして私のことをそんなに知ってるの?流から話を聞いたの?」

こんなにまっすぐで、可憐な少女を、どうして憎めるだろう。美砂は、今度ははっきりとそう思った。

「聞いてないけれど。あなたの顔を見れば、わかるわ。少しの間、わたくしがここにいるから、休んでいらっしゃいな」

「でも」


「わたくしも、青英のそばにいたいの」


まだ何か言いそうな朱理に、美砂はわざとそう言った。その気持ちに嘘はないけれど、朱理を黙らせて、自分の部屋に帰らせるには、一番いいと思ったのも確かだった。

案の定、こくりと頷いて、ようやく朱理は部屋を出て行った。


浮かべた笑みを消して、美砂は、硬く目を閉じたままの青英に、再び目をやった。

先ほど朱理が額の乗せたタオルは、早くも熱くなっていて、美砂もそれを水につけて搾りなおした。
「あなたは、どうしたいのでしょうね」


美砂は、青英が目覚めている時には、訊けなかったことを口にしてみる。当然、答えはない。

「仕方なく、神の声に従っているのですか。それとも」

結婚してしばらく経つ夫の頬なのに、遠慮がちに触れてみる。いつもと違って熱を帯びた皮膚が、自分に何かを訴えかけてくるかのように思えて、美砂は目を閉じた。




「近付くな」


掠れた声で、呻くように言われて、朱理は肩をびくりとそびやかした。寝言だろうかと思って、青英の顔を見つめるけれど、その薄く開かれた目が、彼に意識が戻ったことを示していた。

だから、青英の額を冷やそうと、水でしぼったタオルを持っていた手を、静かに引っ込めた。

これだけの高熱で、幾日も苦しめたんだから、無理もない。朱理は、そう自分に言い聞かせて、席を立った。返す言葉なんて、ひとつも見当たらなかった。

あと数歩でドアのノブに指が届こうかというところで、再び青英の声がした。


「待て」

振り返ると、今度はしっかり目を開けた青英の姿が見えた。

「何」

朱理が静かにそう言う。

「俺はただの風邪だ。うつるだろうが」

かすれた声が、辛そうなのに、そう言い募るから、朱理はその意図に思いを巡らせてみた。

「…風邪がうつるといけないから、近寄るなって言ったってこと?」

この発熱が朱理の力のせいじゃないと、言おうとしたんじゃないかと、思った。


「そんなことは、どっちでもいい。うつるとまずいから、美砂にも来るなと伝えろって言いたかっただけだ」

態度が大き過ぎる!言いたいことが分かりにくすぎる!どうせなら、素直に、わかるように、優しくしてくれればいいのに。

朱理は唖然としたが、次の瞬間、青英の論点の穴を見つけてほくそ笑んだ。

「わかった。美砂には、流に伝言を頼んでおく」

「は?」
「私が、今から美砂に接触すると、青英の風邪を中継しちゃうかもしれないでしょう。それに、私は風邪を引かない体質なの。体温が高過ぎるから、人からもうつったことがない。だから、看病にはうってつけだと思うけど」

そうやって一息に言って、青英の返事を待たずに、再び彼の枕元に戻る。

ちっ、と舌打ちするのが聞えたけれど、それすらもいつもより弱々しい感じがして、朱理は胸が痛んだ。


「ただの、風邪、なんでしょう?」

なんだかんだいって、青英には、やっぱり優しいところがある。朱理は、今回のことで、それをはっきりと認めた。

「そうだって、今言ったとこだろうが。ごちゃごちゃ言うな。看病する気があるなら、水を持って来い」

青英は鬱陶しそうにそう言って、目を閉じる。


でも、風邪であるはずがない。
確かに近頃の気温は低いけれど、青英が倒れたのは、朱理の熱を吸収した直後だ。それを風邪だと言い張るのは、朱理の心の内を読んでいるからだとしか思えない。

手渡した水を、半身を起して青英が喉を鳴らすように飲むのを見つめていると、朱理は青英が生きている、という実感が湧いてくるのを感じた。

「よかった、目が覚めて。青英がこのまま死んだら、私は」

朱理は、自分の声が微かに震えていることに気がついて、慌てて息を整えた。

「俺がこのまま死んだら、なんだ」

青英が、かすれた声でそう言う。青英は、単純に、自分が死ぬと仮定した話をされることを、新鮮に思った。次期国王となる立場に生まれてきた以上、死に関する話は、周囲が嫌う。

そんな常識を一切知らない朱理は、促されるままに言葉を続けた。


「生きていけない」


その声の切実さに、青英だけでなく、朱理自身もはっとしてしまって、思わず二人は目を合わせた。

「私、確かに、ずいぶんと青英に依存してるみたいだね」

力なくそう言って笑う朱理に、ようやく青英は、彼女がずいぶんやつれていると言うことに気が付いた。

誰かがいないと生きていけないなんて、思ったこともなかった。朱理は、自分の発言が、まだどこか信じられない気持ちでいた。

確かに、父親が先に死んだら、自分も後を追うしかないだろうと思ったことは何度もあった。でもそれは、気持ちの上ではなく、生活することを考えた上でのことだ。


「ちょっと来い」

「あっ」

黙り込んでそんなことを考えていたから、朱理は急に腕を引かれて、バランスを失った。

「また熱が出るでしょ!さっき美砂に手を握ってもらったから、大丈夫だってば!」

青英が、自分のベッドの中へ、自分を引きずり込もうとしていることに気がついて、朱理はもがいた。
「俺は風邪だ。俺が来いと言ったら、すぐに来い」


同じことを言って、3日前には無理して倒れたくせに、と言いかけて朱理はやめた。どうせ、青英は言い出したら、意見を曲げることなんかないのだから。

諦めて、久しぶりにその胸に顔を寄せると、いつもより青英のにおいがはっきり感じられて、朱理はひりひりしていた気持ちが落ち着き始めた。


「こうして俺が生還したんだから、お前ももうちょっと生きてろ」


耳元で、低く強い声がして、朱理は息ができなくなった。

「なんだ、もう眠くなったのか」

「うん」

生きていて、いいんだ。そんな思いが、朱理の胸を浸した。
なんとか声を絞り出したものの、目の奥と喉の奥が熱くて困った。泣きそうになっていることに気がついて、泣く資格もないんじゃないかと思う気持ちから、それを隠すのに必死だった。


「青英、いい匂いがするから」


ほとんど、自分が何を言っているのかわからない状態の朱理。

「は?汗臭いの間違いだろ。鼻おかしいんじゃね?」

「おかしいかもしれない。なんか、甘い匂いがして、眠い」

「変なやつ。眠いなら寝ろ」

「うん」

まだ目の奥がじんじんするのに、不思議と眠りの世界がすぐそこまで来ていて、朱理は不思議に思う。


「自由が、ないの?」

「は?」

朱理は、まどろみの中で、そう口走っていた。


「青英は、自由がないって思ってるの?」


こくんと、青英が息をのんだ気がして、朱理は自分の思い浮かべた言葉が口から出ていたことをはっきりと自覚した。

「うなされながら、そう言ってたよ」

ちっ。青英の舌打ちが聞こえて、朱理は微笑んだ。いつもの、青英らしい反応だから。


「不自由だろうが、この肩書は」


鬱陶しそうに言う言葉が、聞えて、朱理はくすくす笑ってしまった。眠たくて眠たくて、目は開けられないのに、可笑しい。

「こんな綺麗な国の、王子だなんて、羨ましい」

ときどき、白く化粧をする国。水が滾々と湧きだす国。優しく美しい美砂が後継ぎを産む国。
「何にも縛られてないお前の方が、よっぽどいい立場だろ」

「んー」

縛られてないって言うよりも、危なくて縛ることもできない、というのが正確な表現だろう、と朱理は思う。

「ちっ。寝ながらいい加減な返事しやがって」

朱理は、思考回路が停止しつつある頭で、ゆっくりと言葉を探す。

「触りたいものに触れないし、行きたいところに行けないし、不自由だよ」

青英や美砂のおかげで、今でこそずいぶんと自由になっていると思うけれど、彼らがいなければ、そうはいかない。それに、この調子で自分の力が強大化するなら、また不自由な生活に戻らざるを得ない。


「それは、お前が自分で勝手に節制してるんだろうが。自分の結婚どころか生死すら自由にならない立場だぞ、王子は。つまんねえ生き方だ」

「うーん。結婚が、できるだけ、いいよ、羨ましい…」

「半分寝言じゃねえか」と呟いた後で、幾分思いつめたような声音で、青英がこう言った。


「愛してもいない女を抱いて、跡継ぎを残さなきゃならないんだぞ」
愛しても、いない、女。

その言葉に、朱理は少し目が覚めてくる。


「そんなに私のことが嫌なら、神の声に逆らってでも」

「お前と子どもができそうなことをした覚えもねえけど」

「え。何回か、抱き締めながら寝たら、そのうち赤ちゃんできるんでしょう」


「お前、それ、本気で言ってんのか」

「だって、本には『寝る』って書いてあったよ」

はあ。青英が、大きなため息をついた。その反応を見れば、どうやら、違うらしい、と朱理も気がついた。

「じゃあ、どうしたら、赤ちゃんができるの?」

「ちっ。お前の父親、一切そっちの教育しやがらなかったな。まあ、そんな必要もなかっただろうけど」
「お父さんのこと、悪く言わないで。赤ちゃんのこと、教えてよ!」
「そんなこと、俺に訊くな」
「わかった。じゃあ風汰に」
「あいつはダメだ」
「じゃあ美砂に」
「美砂もダメだ」
「……」

心底、納得がいかないと言う目で、朱理が無言を貫くから、青英はこう続けざるを得なくなった。

「わかった。俺が説明すればいいんだろ?」

「うん」

「ちょっと考えておく。そのうち教えてやる」

「わかった」

何でも、その場で言いたいことを投げつけてくるような青英が、返事を保留したことを、意外に思ったけれど、朱理にはもうひとつ、気になることがあった。
「青英は、美砂を愛してないの?美砂は、青英のこと好きだって言ってたよ」


青英と結婚する立場にあるのは、名目上婚約者という位置づけにある自分を除けば、すでに妻となっている美砂だけだと、朱理だって気がついていた。

「俺にはもったいないような、いい女だとは思ってるよ」

「そうだよね」

「……」

「あ、それで?」

一瞬、むっとして口をつぐんだ青英の様子もたいして気にならないらしく、朱理は悪びれもせずにそう尋ねてくる。

「でも、俺が選んだ妃じゃない。俺の選択の余地はどこにもない」

病気で、弱ってるのかな。こんなに、思っていることを言葉にする青英は、初めて見た。朱理は、そう思いながら、青英のむすっとした顔を見つめる。

「あるでしょう」

「ねえよ」


「美砂を好きにならないっていう選択肢。子どもを作らないっていう選択肢。離婚するっていう選択肢」


青英は、ふと、朱理の目を見てしまう。きらきらと薄明かりを映した瞳が、自分の内心まで見透かすような気がして、青英は言葉が出ない。

「青英も、美砂のことが好きだから、赤ちゃんができて、離婚もしないんでしょう」

朱理がそう続けるから、青英は、自分の気持ちがゆらりと揺れていることを無視できなくなってくる。

「好きとは、違う。同士だ」

そう言ったものの、その声にはさっきまでの不満げな色はない。

「同士って、仲間ってこと?」

「まあ、そんなもんだ」
「それも、いいね」

予想外のところで、ふいに朱理が微笑むから、青英は、また、目を逸らしそこなった。

「お前の頭の中は、単純でいいな」

朱理の笑みがうつったみたいに、青英が綺麗に笑って、朱理は息を呑んだ。

頭の中が単純だなんて、聞きようによっては嫌味になるのに、その表情を目にしたら、そうは感じられなくて、朱理は驚いた。


「青英、もっと笑って」


「は?」

「今の顔、好き」

「好きって簡単に言うなって言っただろ」

「でも、すごく好き」
「…笑えって言われたからって笑えるわけねえだろ」

「だよね。青英だもんね」

「何だ、その理由は」

あ、駄目だ、と朱理は思った。一度は遠のいていた眠気が、あっという間に襲いかかってくるのを感じる。

昼間、美砂が看病を替わってくれた時間に、自分の部屋で横になっていた時にはちっとも寝付けなかったのに。

青英の部屋のベッドでこうして横になるのは初めてなのに、いつも通りに抱かれて、その肌触りやにおいを感じると、眠くて仕方がない。


「結局、寝るのかよ。言いたいことだけ言いやがって」

青英は、すでに深い眠りに落ちた様子の朱理の髪を撫でた。
朱理は、久しぶりにぐっすり眠って、すっきりと気持ちよく目が覚めた。

ああ、良く寝た、そう思って、心地よい睡眠の余韻に浸りながら、寝返りを打ってぎょっとした。

至近距離に、青英の寝顔を見つけたからだ。

予想外に、無邪気で美しい顔をして眠る様子は、初めて王子様なんだな、と朱理も思うほどだった。

どれくらいの時間その寝顔に見惚れていただろう。朱理は、彼の後ろの部屋の様子と、窓の外が暗いことに、ようやく気がついた。


「えっと?」

朱理は、軽い混乱状態のまま、そっとベッドを抜け出した。

そして、よくあたりを見回して、ここが青英の部屋であることを思い出した。それから、寝室から、机やソファがあり、廊下につながる部屋に出てみた。

そこには、二人分の食事が置かれていて、その料理はすでに冷めていた。

たぶん、メニューからして、それは夕食。

青英が目覚めて、珍しく長く、二人で話したのは、夜更け前だったのだろうか。それにしたって、日が昇ってまた落ちるまでの間、二人して眠りこけていたとは。

朱理は、自分でもびっくりしてしまう。そして、青英のことが心配になって、寝室に引き返した。

いつもなら、自分はともかく、青英がそんなに長い時間眠ることはないからだ。

やはりまだ体調が悪いのだろうか、とか、わたしと過ごしたせいで、再び熱を出したのではないだろうか、とか、よくない考えばかりが浮かんでくる。


焦って触れた青英の額は、さらさらしていて、冷たい。


よかった。そう息をつくと同時に、朱理は慌てて自分の手を引っ込めた。これからは、青英や美砂に不用意に触れることは避けなければならない。

どうやら、自分の力が次第に強くなっていることは確からしいのだから。

一旦自分の部屋に戻って冷たいシャワーを浴びて、全身を冷やした。気休めかもしれないが、誰かに火傷を負わせたりしないように、と思いながら。

だから、思いのほか長い時間、水に打たれていたのかもしれない。


着替えを済ませて、急いで青英の部屋に戻ったのに、青英がベッドの端に腰かけていたからちょっと驚いた。

「起きてたの?」

そう声をかけると、顔を上げた青英の髪から、ぽたりぽたりと滴がこぼれるのが、薄明かりの中でも確認できた。

返事はない。

「病み上がりなのに、もうお風呂に入っちゃったの?」

体が弱っている時には、入浴を避けた方がいいと聞く。朱理はそれを思い出して、青英の足元に膝をつき、彼の顔を間近で確認してみた。

夜更けにたくさん話したのが嘘のように、返事がないのは、体調が悪いせいだろうか。

さっきは、熱もなさそうだったけれど、また体温が上がってきたんだろうか。

とっさにその額に触れたから、グローブが邪魔だということにも気がつかなかった。
ふっ。やわらかい息が頬にかかって、朱理は青英の顔をまじまじと見つめてしまった。


「笑った…」


朱理が思わず呟くと、青英は笑みをさっと意地悪なものにすり変えて、するりと朱理のグローブを引き抜いてしまった。

「バカだろ。こんなもんつけて、体温がわかるか」

「あ、ああ」

そういえば、そうだ。そう思った直後に、いや、直に触れなくてよかった、とも思い直す。

だから、あえて素手で、青英の熱を測り直すことはしなかった。


それなのに。

青英が、朱理の中の熱を逃がす時のように体を抱きしめたと思ったら、そのまま二人は一緒にベッドの中に転がり込んだ。


「アカリ」


自分のことだと、思えなかった。
青英が、まっすぐに見下ろしてくる視線を受け止めながら、朱理は耳で捕らえた低い声を反芻していた。

指を絡ませた両手に、圧し掛かってくる青英に、朱理は、戸惑いながら、なんとか言葉を探す。

「私に触らない方が、いいよ」

身長差が大きいから、見下ろされること自体には慣れているが、眠るときか、朱理の力の抑制をするときに触れることしかなかったから。

どちらも完全に覚醒した状態で、特に朱理の力が溢れそうな様子もないのに、こうして近くでじっと見下ろされることに、朱理はうろたえていた。

一晩、一緒に眠ったはずのベッドが、ぎしりと、まだ聞いたことのない音で鳴る。


「朱理」


二度目に呼ばれて、ようやくそれが自分のことだと気がついて、朱理ははっとした。

「はい」
思わずそう返事をしてしまい、しまったと思ったけど、青英は馬鹿にして笑ったりしなかった。ますますおかしいと思って、疑問を口にしようとした時、朱理はさらに混乱することになる。

あ、「味見」だ。

ただ、唇に感じる柔らかな感触は、前に舌で舐められただけのときとは、ずいぶん違う気がする、と朱理は感じた。

「ん、しょう…」

なんとか、少し唇が離れる隙に、話そうとするのに。

「あ、…う、…ん…」

何か言おうと口を開くたびに、青英の唇がそれを塞ぐように被さってくる。それだけにとどまらず、舌が入ってきたとき、ようやく、朱理は美砂に借りた恋愛小説のラブシーンを思い出した。

「やっ、…ちょ、……青英!!」

なんとか必死で身をよじって、朱理がそう叫ぶと、ようやく青英は体を起こして、朱理を見た。

「なんだよ」

ひどく不機嫌そうに。
「な、んで、キスするの?」


そして、朱理が真っ赤な顔をして、肩で息をしている状態だと言うことを認識すると、青英は確かに笑った。

まだ珍しい青英の笑顔に戸惑いながら、美砂に借りた小説の内容をありありと思い出して、さらに朱理は混乱していく。

こんなキスは、恋人同士がするもののはずだ。私と青英は、そうじゃないはずだ。


「青英も練習してるの?」


続けて、朱理がそう尋ねるから、青英の貴重な笑みはかき消えた。

「何の練習だよ?」

怪訝な顔になって、青英がそう訊き返しても、朱理はどうして彼がそんな表情になったのかがよくわからない。

「何って、将来結ばれる相手とする前に、」

「馬鹿かお前」

そう言われて、そう言えば青英は、とっくに美砂と結ばれていたんだったと、朱理も思い直すけれど。
「なんでいちいち事前に、別の奴と練習しなきゃいけねえんだよ」

青英の不可解そうな顔は、変わらない。

「だって、風汰が、」

「あいつがなんだ」

どうして、こう、人の言葉を遮るんだろう、青英は。

ため息混じりに朱理は、彼を見上げてそう思う。

「なんでもない」

また途中で、言葉を投げつけてくるのかと思うと、すっかり話す気が失せて、朱理はそのまま目を閉じた。


「きゃあ!」

びっくりして、朱理はすぐに目を見開いた。青英が、短い髪から覗く朱理の左の耳たぶを噛んだから。

「もう!なんで噛むの?びっくりした!」

抗議してるつもりなのに、青英は全く動じる様子もなくて、朱理は黙った。
「さっさと言え。風汰がどうした」

低い声が、かすかに歯の感触の残る、その耳元で響いて、朱理は驚いた心臓がどきどきしっぱなしだということに気が付く。気持ちを落ち着かせながら、ゆっくりと口を開く。

「もう、だから、風汰にとっては練習じゃないけど、私の将来のために、キスの練習をしてくれて、」

なんなのよ!結局、最後まで言わせてくれないじゃないの!!

今度は、さらに強く唇を押しつけて、すぐに舌をねじ込んでくる青英に、毒づくこともできず、朱理は目眩を覚えて目を閉じた。


「はぁ、…ん、…んん……」


自分の心拍音が、耳にまで響くって、どういう状態なんだろう。こんなに呼吸が乱れるなんて、キスって体に悪いんだろうか。

そんなことよりも、どうして、青英は、私にキスしてくるんだろう。「なんでキスするの?」って聞いたはずなのに、まだその返事はしてくれていない。

青英の唇の触れる角度や、舌が触れる場所が変わるたびに、びくりと朱理の肩や指先が震える。

「あいつ、ぶっ殺す」

やっと唇を離して青英がしゃべったと思ったら、物騒な発言。朱理は呼吸を整えながら、さっきとは違う種類のため息を漏らした。

「あいつって、風汰のこと?殺さないでね。私の親友だから」

生真面目にそう言う朱理を、青英は鼻で笑った。

「馬鹿。マジで世間知らずだな、お前は。親友とキスの練習なんて、おかしいだろ」

「おかしくない」

「羊の皮をかぶった狼に、体よく初めてのキスを奪われてんだよ」

「初めてじゃない」

「は?」


「青英が初めてでしょ」


そこまで会話を続けると、ふいに青英が黙ってしまったから、朱理はちょっと驚いた。
「あれ、忘れてたの?」

そんなに前のことでもないのにな、そう続けようとしたとき、青英の大きな手が、朱理の髪を撫でた。


「朱理」


青英が、また、朱理の名前を呼んだ。

どうして今日は、ちゃんと名前を呼んでくれるんだろう。髪を撫でてくれるんだろう。朱理は、自分の胸が妙に痺れるのを感じながらも、その疑問を口に出すことができない。

「お前って、ほんとに何考えてるのかわからない。俺を翻弄してんのか」

そう言い捨てると、青英は再び朱理にキスをする。

「は、…はぁ?」

青英の方が、よっぽど何考えてるかわからない、と朱理は必至で考える。だって、まだ答えてくれていない。

「な、んで、って訊いてるのに…、ん、…もう!」

短いキスの合間に、とぎれとぎれ、必死で言葉を繋ぐけれど。

やっぱり、小説に出てくる、主人公と恋人みたいなキスだな。

朱理はそう思うせいで、心拍数が増えて、顔が熱くなるんだと固く信じている。


「なんでって、キスしたいからするだけだろ」


焦点が合わないくらいの至近距離で、青英の呼吸が顔の皮膚で感じられて、どきりどきりと胸が疼く。

「したくなったら、してもいいものなの?」

「誰にでもじゃねえぞ」

面倒臭そうに答える青英に、朱理はまだたくさん訊きたいことがある。


「妬いちゃうから?」


青英は、沈黙して朱理をまじまじと見つめた。

「え?あれ?火傷させるとまずいよね?」

「…まあ、そうだ」

朱理が意図したのが「焼いちゃう」の方だったことに気がついて、ようやく言葉が出て来た青英に、朱理は気がつかない。

「じゃあ、なんで、」

「あれこれうるせえな」

じゃあ、なんでキスしたいの、という疑問は、言葉にできなかった。案の定、青英が遮ったから。それからは、青英が朱理の唇を離さなくなったから。

もう!理解不能!

朱理は、青英の考えを推測することを諦めた。ひたすら酸素を求めつつ、体験したことのないキスの感触と、自分の体のあちこちに現れる反応に、朱理は疑問を全部忘れた。

その後は、ただ、必死に青英と唇を重ねているだけだった。


「好きだって言うよりも、愛してるよ」

聞き慣れた声が、聞き慣れない言葉を作った気がした。朱理は、眠り過ぎてぼんやりする頭で、それを認識しきれなかった。



3日間に渡って、水の国の城で門前払いをされていた風汰は、苛立っていた。

一応、今朝は、城内へ通される時に、ここ数日は青英が体調不良に陥って、意識がなかったことは聞いた。

しかし、ようやく部屋に入ることを許されたと思ったら、それは青英の部屋で、まだ奥の寝室には朱理が眠っているらしい、ということに気がついたら、かっとした。


「朱理に何をしたの」


話す言葉はいつも通り穏やかなものだけれど、声に明らかな棘がある。

朱理は、寝起きがいい方だ。風汰がどんなに朝早く、石造りの塔を訪れようとも、大抵朱理は目覚めていたものだ。
その朱理が、こんな時間まで眠っているなんて。


「キスしただけだ」


動揺ひとつせずに、青英が皮肉な笑みを浮かべて答えると、風汰は少し安心した半面、イライラする気持ちを抑えることは完全に不可能になった。

「それは、ちゃんと朱理を好きになったっていうこと?妊娠してる奥さんだっているのに、朱理を大切に扱えるの?だいたい、おじさんから手を出すなって釘を刺されたはずだけど」

一気に不満を吐きだすと、青英がいつも通りの冷たい顔に戻っていた。


「お前こそ、あの世間知らずを上手く言いくるめて、キスしたんじゃねえの」


そう言われて、風汰はムッとしたものの、顔は少し赤くなった。

「神の声は、《風は火を大きくすることを忘れるな。近付き過ぎてはならぬ》って言ったよな。お前こそ、どういうつもりだよ」

風汰は、ぐっと奥歯を噛みしめて、堪えた。
「わかってるよ。僕には朱理の力を煽ることしかできないってことくらい。でも、どういうつもりだって言われれば」

そこで、言葉を区切って、風汰は澄んだ目でまっすぐに青英を見つめ返した。


「好きだって言うよりも、愛してるよ」


どっすん!

鈍い音がして、風汰も青英も、寝室の扉に目をやった。すたすたと歩いて青英が開けた扉の向こうでは、案の定、朱理がベッドから転げ落ちていた。

「何をやってるんだ、お前は」

青英が呆れてそう言うと、朱理は、ようやくはっきりしてきた意識の下で、呻いた。

「お腹がすいて、動けない…」

そう言えば、いつから食事を取ってないんだろう。空腹になるのも当たり前だと思う。なのに、そんな朱理を見て、風汰がくすくす笑ってる。青英も、声こそ出さないものの一瞬笑い顔を見せた気がした。

あれ、夢だったのかな。なんか、色んなことがあった気がする。朱理は、ふとそう思った。

すると、あっという間に、青英のキスを思い出したけど、彼のいつも通りの冷静な顔つきを見ていると、どうも現実味がない気がしてくる。
「さっさと食えよ」

用意してもらった食事の席でも、朱理は、青英の顔をじいっと見つめてみるけれど、それは、昨日のことはさっぱり忘れたって顔に見えた。

「あ、うん。青英って、あんなに具合悪かったのに、すっかり元通りなんだね。…あれ?風汰は食べないの?」

あまり食事が進まない様子の風汰に気がついて、朱理はそう言った。

「うん。もう食べて来たから」

そう言って、にこっと笑ってくれる風汰に、笑みを返しつつ、朱理はひたすら食べた。こんなにたくさんご飯を食べたのは、生まれて初めてだ、と思いながら。


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