身を焦がすような思いをあなたに
解けゆく呪縛
馬車が、長い長い森を抜けたら、急に寒くなった。水の国に入ったのだ。

朱理が身震いしたことに気がついて、青英が小さく笑って、マントの中に朱理を引き入れた。

「水の国って、こんなに寒いところだったんだ」

朱理がすぽっと顔を出して、不思議そうに言った。体温が人並みになったから寒く感じるのだろう。

朱理は馬車の揺れに任せて、青英の肩に頭を傾ける。温かくて、いい匂いがして、気持ちがいいのに、脈が早くなる。


「父親に会いたいなら、呼べよ。俺も話がある」

青英が、そう言って初めて、朱理は父親に会いたいと思っていたことを、思い出した。黄生に攫われたから、あの石造りの塔で、守られていたことに気が付けたんだった、と。

「うん。ありがとう。…え、お父さんと青英が話してるのって、ほとんど見たことないな。何を話すの?」

「なんでもいいだろ」

ふと、疑問に思って何気なく尋ねたら、青英がふいっとそっぽを向いたから、朱理はむっとした。

青英の頭の中には、「朱理に手を出すな」と言った陽輔の言葉が、いまだに残っている。無視してやろうと思うのに。深いキスの後でいざ朱理に手を出そうとすると、その声が耳に蘇ってきて辟易している。

なんとかして、あの発言を撤回させてやる。

王と女王は、朱理が見つかった以上、神の声のこともあるのだから、朱理を手放せとは言わないはずだ。

これだけ傍にいて、今では朱理に触れても、命を縮めずに済むのに。朱理の気持ちが自分に向いているとわかっているのに。

キスするのが精いっぱいだというのは拷問だ。


「私のこと好きなくせに、まだ意地悪するんだね」

そんなふうに、青英が考えていたにもかかわらず、朱理がすねたような顔で青英を睨んだ。

「うるせえ。お前だって俺のこと好きなくせに、生意気言うな」

「ほんと、偉そう。嫌なやつ」

それなのに、どうして好きなんだろう、と心の中で言葉を補って、青英の腕に抱きついた。

「悪口言いながら甘えるなよ」

青英の吐息を髪に感じて、朱理は彼が少し笑ったらしいことを知る。


「初めて塔で出会った時も、一言も話さなくて、偉そうだったよね」

「お前こそ、無遠慮に視線をぶつけてくるから、喧嘩売ってんのかと思ったけど」

二人は、思わず顔を見合わせて、お互いの第一印象が最悪だったことを再認識した。


「でも、衝撃的だった」


そこはなぜか声が重なって、ふたりはくすりと笑った。

「野生の花みたいに、自由で強くて綺麗だった」

朱理の相変わらず印象の強い目に引き込まれるように、青英は囁いた。

「き、れい?」

朱理は、気が強いとはよく言われるけれど、自由だと言われたことは、青英以外にはない。

けれども、最後の形容詞は、聞き間違いだろうと思うくらいに自分に縁遠いものだったので、思わず聞き返していた。

「口が滑った」

ちっと舌打ちする青英の頬が、わずかに赤く染まっていることに気がついて、朱理はますます呆然としてしまった。

「お化粧もしてないのに」

全く青英の言葉を受け入れられない様子のまま、朱理が慌ててマントの中に潜り込もうとしているから、青英は噴き出した。

今更ながら、朱理はその事実に気がついた。大人になった女性は、化粧をするものだと、美砂に教わっていたのに、すっかり忘れていたのだ。

朱理は、「似合う」と青英が言ってくれたような気がしたことも、思い出している。それなら、身ぎれいにして顔を合わせたかったと思うと、朱理は隠れたくなったのだった。

「目立つから化粧もすんな。他の男が寄って来ねえように、もう一度髪も短く切ってやりたいくらいだ。お前の良さは、俺だけが知ってればいい」

両手で朱理の頬を包み込んで、青英がまっすぐに目を覗き込んでくるから、今度は朱理が顔を赤くする番だった。


「男」という表現を、生まれたばかりの自分の息子にも、青英が使ったことを思い出して、朱理はこう言った。


「赤ちゃんのこと、恨んでる?」


青英に訊くべきことじゃないとわかってはいたけれど、陽輔の話をした後に、赤ん坊のことを思い出したせいで、朱理の頭はわずかに混乱していたようだ。

ときどき、青英を陽輔と重ねて考えることがあったから、というのもあるだろう。不器用な優しさの見せ方が、ふたりは良く似ている。


青英も、突然そう尋ねた朱理の瞳が、ゆらりと揺れたことに気がついた。そして、朱理が自分自身を、息子と重ね合わせていることにも。

自分が産まれることによって、母親が死んでしまった、というその点で。


「いや。俺が望んで得たガキだから。美砂だって同じ思いに決まってる」


ぽたり。

黒いマントに、さらに暗い色の染みができる。

さっき揺れた瞳は、今はぽたぽたと熱い涙をこぼして、でもまだ青英の目をまっすぐに見ている。嘘のない彼の目に、朱理は自分の中の何かが綺麗に消えて行くのを感じる。

青英と美砂が、赤ちゃんを恨んでいないなら。朱理は、勝手な理論だとわかっていながらも、こう思う。

お父さんとお母さんも、私のことを恨んでいないんだろう。
「正直に言うなら、かわいいと思うくらいだ」


本当はこんなことなんて言いたくないんだと、ありありと表情に出しながら、青英がそう打ち明けるから、朱理は思わず笑ってしまう。涙で濡れた頬のまま。


「青英、愛してる」


朱理が、首の後ろに手を回して、口づけたから、青英はどきりとした心臓を鎮めようと、ひそかにため息をついた。

青英に触れても、もう彼を傷つける恐れもない。なのに、このちりちりとひりつくような熱い感情は、消えないままだ。

恋焦がれるって、こういうことなんだ、と朱理は思う。


「青英は、私にかけられてた、呪いを解いてくれた」


穏やかな笑みを浮かべて、長い睫毛を濡らしたままの目で、覗き込んでくる朱理の表情の美しさに、青英は言葉を失ったままだ。

朱理は、方々で「呪われた子」だと言われてきたし、自分でもそう思ってきた。そうではないのかもしれないと、思えたのは、青英の言葉のおかげだ。


「今から、別の呪いをかけてやる」
ふと笑みを浮かべる青英に、今度は朱理が目を奪われる番だった。ずいぶん見慣れたと思っていたけれど、やっぱり青英の笑った顔はすごく好きだ、と思う。

青英は、朱理を膝に横抱きにしたかと思うと、長いキスをした。体を支える力強い腕が、髪を撫でる指が、思いのほか優しい唇の感触が、朱理の意識を混濁させて行く。


「溶けそう」

ようやく、わずかに唇が離れた隙に、朱理がそう漏らす。

「溶けろ。もうどこにも逃げないように」

こんなふうになってしまったら、もうあのときのようには逃げられないだろうな、と朱理もぼんやりと考える。




「朱理、愛してる」


呪いを、かけられた。

朱理は、青英と唇を合わせながら、蕩けた思考の中でも、そう悟る。


もう、青英なしでは、生きていけない。


余分な力を手放した今でも、青英が熱で倒れたときと同じことを考えて、朱理は気がついた。自分が、ずいぶん前から、彼に惹かれていたのだと言うことを。

そして、青英にも、同じ呪いがかかっているといいな、と思った。









           完




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