身を焦がすような思いをあなたに
生まれ出ずる感情
「う、うわぁ…」

朱理は、目の前に広がる世界に、息を呑んだ。

くすり。美砂は、予想以上の朱理の驚きぶりに、笑みをこぼした。それすら、気が付かない様子で、朱理は目を見開いて、呆然としている。

美砂は、朱理が、石造りの塔から、ナンネンソウで作られた数冊の本を持ってきて、大事そうに読んでいることを知っていたのだ。

だから、こうして、城内に古くからある図書室に、朱理を連れて来たのだった。

「これ!美、美砂、これ、全部本なの!?」

しばらく経って、ようやく言葉が出た朱理は、美砂を振り返って興奮冷めやらぬ様子で尋ねた。

「そうよ。朱理も、好きなものを読むといいわ」

「えええっ!?」

朱理は、再びびっくり顔になって、美砂の目を見つめている。

だって、これまでは、紙や本という燃えやすいものは、体の近くに置いてはおけなかったから。ナンネンソウの繊維を漉いて特注した本しか、読むことはかなわなかったから。
「一日中城の中に閉じこもって、退屈でしょう。借りて部屋で読んでもいいし、この図書室の中で読んでもいいわ」

正直、朱理はこの城の中でも広くて刺激的だと感じていたけれど、美砂のこの申し出は、それにしたって魅力的だった。

「ほんとに?」

「本当に」

「私でも?」

「朱理でも」

「もし、燃やしちゃったら?」

「同じ本を探して買うでしょう」

「そうじゃなくてね、お城が火事にならない?」

「青英とわたくしがいる限り、ならないでしょうね」
ようやく、朱理は気持ちが落ち着いたらしく、安堵の笑みを見せた。かと思ったら、小さな体で美砂の腕にぎゅっと抱きついた。


「美砂、ありがとう。大好き」


美砂は、「まあ」と驚きの声を漏らしたものの、間もなく母親になる人間としての意識のせいか、朱理を愛しく思えた自分に驚いた。

「朱理は、とても素直ね。心も綺麗。わたくしも、あなたのことが好きよ」

そう言って、優しく朱理の髪を撫でた。きっと、大きく張り出したおなかを圧迫しないように気をつけて、腕に抱きついたのだろうと、美砂も気が付いていた。

人との距離を上手くとることや、接し方を相手によって変える器用さを、一切持ち合わせていない朱理は、まるで子どもだ。美砂は、またそう思った。

でもそれは、嫌な気持ちではなく、不思議と温かな感情で、美砂はそんな自分の穏やかな心のうちに、安堵する。

そのせいか、ためらう気持ちもなく、自然と次の言葉が出ていた。


「青英を、どう思う?」


美砂が、おっとりと、そう話しかけてきたから、朱理は思わず「は?」と尋ね返してしまった。

本棚の背に並ぶ文字を見ながら、図書室内を見て回るのに、夢中だったから。

「朱理は、青英のことを、どう思ってるの?」

美砂が、頬笑みを浮かべている美しい様に、見惚れてしまって、朱理はますます何を尋ねられているのかわからなくなってくる。

「どうって…、冷たいし、偉そうだし、何考えてるかよくわからないと思ってる」

あまりにも正直に答えてしまい、美砂が笑いだした。

「そうね。じゃあ、朱理は、そんな青英を、好き?」

朱理は、少し考えた。「好きじゃないけど、嫌いじゃない。美砂は、青英を好きなの?」

朱理は、なんとなく聞き返しただけだったけれど。

「好き」

と、短く答えたときの美砂の笑みが艶やかで、驚いてしまった。

「へぇ」

朱理が、他になんの言葉も思いつかずに、とりあえず相槌を打ってみると、また美砂はころころと楽しげに笑う。

「朱理は、きっと、恋をしたこともないのね」

恋、恋、その単語を、言葉を、字を、思い浮かべてはみるけれど、他に思い付くものは何もない。

「ないみたい」

朱理には、恋の定義がよくわからないけれど、この城に来てから、いかに自分が多くの常識や感情を身につけることができないままで今に至っているのか、ということは、何度も思い知らされている。人の知っていることのほとんどが、朱理の知らないことだ。

「朱理は、本が好きでしょう。これを、読んでみて。わたくしの好きな小説なの」

美砂が、一冊の小さな本を手渡してくれるから、朱理はそれだけで嬉しくなった。

「借りても、いいの?」

目を輝かせる朱理に、美砂は「やっぱりこの子は憎めない」と心のうちで呟きながら、「もちろん」と答えた。


「なにこれ…」

朱理は、思わず呟いて、自分の口元を手で覆った。だから、それまで持っていた本は重力に引かれて、ばさっと床に落ちてしまった。

その頬は真っ赤な色に染まっている。

世間知らずって、そういうことだったの?

朱理が美砂から受け取ったのは、恋愛小説だった。主人公の女の子が、運命の人に出会って、結婚する、というシンプルなストーリーの。

途中までは、「これを恋って言うのか」なんて思ってドキドキしながら、その本を読み進めていたはずの朱理が動揺したのは、場面がラブシーンに差し掛かったからだ。


キス?キスって言うの、あれ!?


パクパク口を動かすけれど、言葉にならず、朱理は短い髪を両手でぐしゃぐしゃとかき混ぜた。今の彼女の頭の中は、初めて青英と会った時のことでいっぱい。味見って言ってたのに…、やっぱり料理の味見とは違ったんだ。

そんな当たり前のことすら知らずに、19歳になっている自分が、恥ずかしくて、消えてしまいたくなる。

おそるおそる、床に落ちた本を、もう一度拾い上げて、開いて見る。

さっきまで読んでいたところまでたどり着き、続きに並ぶ活字を追うと、今度は失神しそうになった。


舌、舌って!?

あのとき、唇を割って、何かが歯に触れたような記憶が蘇る。あ、あれだ、あの柔らかい感触の…。


「え!!」

そこより中まで入ってきたわけじゃないけれど、青英が何をしようとしていたのかわかっただけで、朱理は激しく動揺していた。

「だめだ!もうこれ以上、読めない」

呟いて、うずくまっている朱理。

「いやいや、キスだって?なに、なんで?味見って、どういうことなんだろう。いや、でも、確かに、舐められたような」

馬鹿にされてるんだって、思ってた。いや、実際、馬鹿にもしてたんだと思う、あの青英の態度からして。

でも、あの行為自体は、親しい男女でしか交わさないものだってことを、初めて知って、朱理はどうやってこの混乱を収めればいいのかわからず、途方に暮れていた。


「朱理!」


突然部屋に声が響いて、彼女ははっと顔を上げた。風汰が慌ててドアから入ってくるところだった。

「具合が悪いのか?」

膝をついて、朱理の顔を覗き込むと、風汰の表情はますます曇った。

「熱があるの?」

そっと額に触れる風汰の手は、優しい。けれど、風汰はちょっとため息を吐いて、こう続けた。
「朱理って、元々熱いから、熱があるのかどうか、全然わからない」

朱理は笑いながら、ほっとして、目を閉じた。

いくら、力が抑えられてるとは言っても、風汰とでは、触れたときの体温がずいぶん違うのは確かで、それでもこうして触れても彼を傷つけずに済むのだと言うことには、嬉しい気持ちだった。

それに、朱理の体温と比べると、風汰の手は冷たくて心地がいいから、目が開けられずにいた。


「キスしていいってこと?」


困惑した風汰の声がして、朱理ははっと目を開いた。

「あ、れ…」

言葉を失い、みるみるうちに頬を染める朱理に、風汰は驚いた。

「もしかして、キスが何か、知ってるの?」
風汰は、これまでの経験上、朱理が持っている知識がある部分では深く、ある部分では浅い、ということをよく知っていた。

朱理が深く理解しているのは、石造りの塔の窓から見えるものと、その部屋の中にあるもの、そして、ナンネンソウで作られた書物に書かれたこと。

全く知らないのは、他者との接し方だ。その接し方との中には、異性との関わり方も含んでいる。

風汰が思わず漏らした言葉にも、当然、「キスってなに?」と不思議そうな顔で訊くのだろうと、風汰は思っていた。そして、彼は、特にそれに対して丁寧に答えるつもりもなかった。

朱理は、さっきまで読んでいた恋愛小説の場面を思い出したのだ。確かに、主人公は目を閉じて、恋人と唇を重ねていた。

真っ赤になってただ呆然としている朱理の姿に、風汰はあるひとつの可能性を思いつくと、胸が疼き始めた。


「そう言えば、あいつと、したんだっけ」


あいつ、あいつ、アイツって誰のことだ?
朱理は考えてみて、ひょっとすると青英のことかとも思ったけれど、その予想も急いで打ち消しながら。

「借りた本を読んでただけだから!恋愛小説で、ちょうど、その、そういう場面で、びっくりして」

見たことのない風汰の表情が、少し怖く思えて、朱理は無意識のうちに早口でそう言った。

たしかに、朱理がしゃがみ込んでいたあたりに、1冊の小さな本が落ちている。風汰は、その本を拾って、ぱらぱらめくり始めた。


「ここのところ?」

開いて差し出したページを、一瞬見て、すぐに目を逸らしながら、「うん」と小さく答えた朱理を見て、風汰は噴き出した。

「なによ」

ムッとした顔で睨む朱理にも、風汰は笑いをこらえることができなかった。だって、また顔が真っ赤になっているから。
「それくらいで、赤くなってて大丈夫かな」

からかうような目で、じっと顔をのぞきこまれて、朱理は思わず一歩下がった。

「どういう意味?」

見慣れているはずの風汰が、いつもと違う雰囲気を孕んでいるようで。そう感じる朱理の声には、少し緊張が混じっている。

「結婚を決めるくらい親しい間柄なら、この先もっと進展があるはずだから」

これ以上の進展って、何だろう。

朱理の想像は及ばない。彼女は戸惑いながら、風汰の顔を見つめているばかりだ。


「一応、結婚することになってるんだろ、朱理だって」

そう言われて、自分の置かれている状況のうち、都合よく忘れかけていたことを、はっきりと思い出す。

「火の一族の娘は、水の一族の王子と、婚姻関係を結ばねばならぬ」と響いた声を。

神の声は絶対であり、その声に従うならば、朱理は青英と結婚しなければいけないのだ。

「でも、」

青英には、奥さんも子どももいるのに、と言いそうになって、朱理はそれをやめた。そんなことだって、関係ないに違いない。神の声の前では。


「僕と、練習しておけば?」


練習って何の?と尋ねようとした朱理の声は、発することができなかった。

風汰の唇が、それを呑み込んだから。

それはほんの数秒で、少し離れた風汰は、呆然と目を見開く朱理を見て、くすりと小さく笑って、言った。

「そんなに見られてると、続きがやりづらいんだけど」

そっと優しく手のひらで瞼を撫でられて、目を閉じると、自分の唇に触れてくる柔らかいものの感触を、一層敏感に感じ取ってしまうようで、朱理はますます呆然とするしかなかった。
風汰が再び離れて、目を開けたものの、朱理はどうしていいかわからず、彼を見つめている。

「どうして、私と練習するの」

キスって、練習がいるものなのかな。さっきの小説の主人公は、練習してから恋人とキスしてたっけ?書かれてなかっただけだろうか。

「僕にとっては、練習じゃないけどね」

風汰が困ったように言うから、朱理はますます訳が分からなくなった。

「じゃあ、私の練習ってこと?」

「そうなるね」

「何のための練習?」

「将来結ばれる相手の前に、僕で練習…って、考えたら、ムカついてきた」

「はあ?」

確かに、はっきりと不機嫌な顔になった風汰を前に、朱理は首をかしげた。「もういい。練習は終わり」

そう一方的に言って、風汰は片手に持ったままだった本を、机の上に置いた。


「なんで?私の将来のためなんでしょ?」

「まあ、そう、だけど…」

そう言われて、風汰の言葉は歯切れが悪くなってくる。

「じゃあ、練習する」

「は?」

今度は、風汰がきょとんとする番だった。

「もう一度、風汰とキスしてみる」

「ちょ、変なこと言うな!」

「もう、風汰の言ってることが、よくわからない!」

「ぼ、僕だって、朱理の思考回路がよくわからない!」

「何よ。結局、どうすればいいの、私は」

顔を真っ赤にする風汰に、朱理は詰め寄るけれど、彼がじりじり下がるから、距離は一向に縮まらなかった。

「…おい、早く寝ろ。俺は疲れてるんだ」

ベッドから、気だるそうな青英の声が響いてくる。

「いつもはさっさと眠ってるくせに、今日は何なんだ」

うるさいなあ。

口に出すと面倒なことになるので、心の中でそう呟いた朱理。

「先に寝てて」

短くそう言うのに。

「こんな明るい中で眠れるか。お前じゃあるまいし。さっさと明かりを消せ」

相変わらず口の悪い男に、朱理は深い深いため息を吐いた。

明かりを消したりしたら、もう本は読めない。絵も描けない。何をして起きてろって言うんだ。ムッとしながらも、仕方なく朱理は火を消した。
暗闇になった部屋の中、どれくらい、ソファに座っていただろう。

「早く来い。明日、城が火事になるだろうが」

今度こそ完全に不機嫌な声がして、仕方なく、朱理はベッドへ足を向けた。

それを言われると、どうしようもないのだ。朱理は、青英に触れないと、自分のやっかいな能力を抑えることができなくなるのだから。青英の言うことはちっとも大げさではなく、城で何かが燃えて、火は広がり、火事となるはずだ。

たどり着いたベッドで、掛け布団の下にそっと体をすべり込ませると、すぐに腕を掴まれて、朱理の心臓がどくっと大きく弾んだ。

慌てて体を反らせる朱理に、青英の目は次第に覚めて来た。


「何か変じゃねえ?お前」

暗い中で、そのまま腕をぐっと引きよせて、至近距離で顔を覗き込んでくるから、朱理はますます身を強張らせる。

「いや、別に、何も」
確かに、朱理は何かしたつもりもない。ただ、青英から見れば、朱理が挙動不審なことは確かだ。

いつもの朱理なら、ペットのように頬をすりつけて自分の胸に納まって、あっという間に眠りに落ちてしまうのだから。


「まさか、今更、緊張してんのか」
「してない」
「なんで離れる?」
「離れてない」
「なんで目を逸らす?」
「逸らしてない」

頑固に言い張る朱理に、青英はため息を吐いた。

「とにかく、そんなに腕を突っ張ってたら、明日目が覚めたときには、お前のネグリジェもベッドも燃え尽きてるだろうな」

その絵を想像して、慌てて腕の力を緩めると、朱理は青英の腕の中に納まった。

「なんだよ、今日は普通の女みたいだな」

そう言って小さく笑いながら、青英がぎゅっと朱理を抱きしめて、髪を撫でたから、朱理は戸惑った。
私は普通じゃないって言いたいの!って言い返そうと喉まで出かかっていた言葉がすっと消えてしまった。


「青英こそ、なんか変」


そう胸の中で呟くけど、まだ青英は朱理の短く赤い髪を撫でている。

「どこが」

青英が、いつになく柔らかい声色でそう尋ねたから、どこがだろう、と、少し考えてみて、朱理は正直にこう答えた。


「お父さんみたい」


それを聞いた途端、青英はちっと舌打ちして、朱理の髪から手を離した。

「さっさと寝ろ」

結局、いつものように、仕方ない、といった雰囲気をありありと漂わせながら、青英はいい加減に朱理を抱き寄せて、つまらなさそうな顔のままで目を閉じた。

「え?何?なんで怒ったの?」

朱理はしばらく青英を揺さぶっていたが、青英が狸寝入りをしたまま、一向に反応を示さないので、諦めたのだった。

ほんとに、この人って、何考えてるのか、ちっともわからない、と朱理はイライラしながらも、結局いつも通りあっさりと眠りに落ちてしまった。


あっという間に薄れ行く意識の中、人肌恋しいって、本に書いてあったけど、きっとこういうことなんだ、と朱理は思った。人の腕の中って、優しい肌触りで、落ち着くんだ、と。これも、私が今まで知らなかったことの一つ。

父の腕の中も、こうだった気がする。もう思い出せないくらい、幼い頃の。



「今日の夜、王と女王に面会に行くから、支度をして待ってろ。美砂にも話しておいたから、手伝ってくれるだろう」

別々に眠った翌朝、青英が、執務室へ向かうついでに、朱理のもとへ姿を見せた。一人で眠ると、ずいぶん早く目が覚めて、朱理は本を読んでいたところだった。

「なんで面会に行くの?」

当然だと思って話すことも、朱理には通用しないのだと言うことを、青英は思い出した。

「この国も、城も、俺のものじゃない。父である王のものだし、その妻であり、俺の母でもある女王も、ほぼ同じ権利を持っている。ここで暮らしている以上、お前も王と女王に挨拶をする義務がある」

青英の、お父さんとお母さん。朱理は頭の中で変換してみて、不思議な気持ちがした。青英は、あまり家庭のにおいがしない。良くも悪くも、ひとりでいることが多いし、ときどき美砂か朱理と過ごしている時間も、まるで自分しかいないみたいだと、朱理には感じられたから。

「わかった」

城に来て、今日までに、どれくらいの時間が過ぎただろう。朱理は考えてみる。うん、一月は過ぎている。それが、王と女王に謁見するタイミングとして、早いのか遅いのかもわからなかった。

「一応、初めて謁見するときには、白い服を着るのが、この国のマナーなの」

青英の話の通り、夕暮れ時に朱理の部屋に来た美砂が、そう教えてくれる。白は、敵意のない意思を表すのだとか。

彼女が静かに首を横に振ると、侍女が次のドレスを朱理の首元に当てて見せる。

この作業を、どのくらいの時間繰り返したことだろう。

「それにしましょう」

美砂が、ようやくそう言ったのを合図に、朱理はあっという間に身ぐるみはがれて、純白のドレスを着せられた。


「あ、あの、美砂様、髪はいかがいたしましょう」

おずおずと侍女の一人がそう尋ね、朱理はちょっとだけ気分が落ち込んだ。

そうなのだ、この国にはやはり、朱理のようにショートカットの女性は見当たらない。もちろん、城の外で、朱理に近い一般市民の中にはいる可能性も否定できないと思っていたけれど。

この侍女の態度からすると、異常に短いに違いない。朱理は、それを自覚すると、王と王女に会う前に、一層、気が重くなった。
「梳かせばいいわ。女王より髪が短いように見せる必要があって、一般的には、結いあげることが多いの」

美砂は、わずかに朱理の表情が曇るのを見逃さなかったけれど、いずれわかることだと気を取り直して、さっぱりと説明した。

朱理は、とりあえず頷いて見せた。

「でも、お化粧はしましょう。火の国では20歳だそうだけど、この国では18歳になると成人の扱いを受けるから」

朱理は、今度は頷き損なった。

「それって、18歳以上の女の人は、みんな、お化粧する必要があるってこと?」

「ええ」

「私も?」

「今日から、しましょう」

「…はい」

手遅れの感も否めないが、美砂の言う通り、明日から気をつけるしかない。「道具は、きちんと朱理の部屋の鏡台にもそろってるのよ」と囁かれて、朱理は無頓着だった自分をちょっと恥ずかしく思った。
クローゼットに並んだ色とりどりのドレスも、端から順番に着てるだけだし、鏡台の引き出しはおろか、鏡すら開いたことがなかったのだ。

とにかく、いろんなものを見て、触れて、飢えた五感を満たすことに夢中だった。けれど、これからは、身なりにももう少し気を配った方がいいのかもしれない。

朱理もそうは思ったものの。

…でも、なんか、お化粧って、皮膚に何かがべったり張り付いてる感じがして、気持ち悪い。

朱理は、丁寧に化粧を施された後も、そう思っただけだった。そのせいか、朱理の顔から、生き生きとした表情がすっかり消えてしまって、美砂は笑った。

「すぐに慣れるから、そんな顔しないで。よく似合うわ、朱理」


その時ちょうど朱理の部屋のドアが開いて、青英が姿を見せた。青英は、ちらりと美砂と朱理の方を見ると、「行くぞ」と告げただけだ。
すぐに背中を向けて廊下へ出てしまうので、朱理は慌ててその後を追おうとした。そのとき、美砂が「大丈夫。待ってくれるから」と言って、朱理の肘を引っ張った。

「何を言われても、聞き流して」

美砂は、小さな声でそう、朱理に耳打ちすると、何もなかったかのように、侍女たちとともに、不思議そうな顔をした朱理を見送った。



なるほどね、そういうことか。

朱理は、そう思いながら、目の前の王と王女を見つめている。

朱理は、謁見の間に通されたとき、青英が片膝をついて待っているから、真似をしてみたら「お前は両膝をつけ」って言われて、どうやら男女で作法が違うらしいと分かり、ちょっと焦った。何でも青英に倣えばいいと思っていたから。

派手な衣装の王と女王が現れた時も、頭を下げずに凝視していたから、慌てた流が下座から小さな声で「頭と視線を下げてください」と言った。

こんな様子だから、仕方がないのかもしれないけれど。

目の前で、身が竦むくらいの、冷たい視線を突き刺してくるのは、女王。

「全く、とんでもない女が紛れこんだものだ。我が国を滅ぼし、世界を滅ぼす呪われた娘。どうせ、そのみっともない短い髪も、自分で焼いてしまう結果なのであろうな。

…なんとかして、神の声に逆らえないものか!」

朱理に対する長い長い罵詈雑言の後、そこまで言い募ったため、ようやく王が口を開いた。

「神の声は絶対だ。慎め。そなたがそこまで、気に入らないと申すのであれば、結婚は先延ばしとし、婚約者という肩書に留めておけばよい」

この、温度差。朱理は、女王の激しい怒りとは別に、一人息子の結婚話にも、大した関心を寄せていない様子の王にも驚いた。
「我が息子と、呪われた娘が婚約!お前、自分の母親を呪い殺したのであろう?我が子に何かあれば容赦はせぬぞ」

ぎり、と歯ぎしりする音がして、青英は般若のような母親の顔を見上げたが、隣で立ちあがりかけている朱理に気が付いた。

それと同時に、歯ぎしりの音は、母親からでなく、朱理の方から聞えた、ということにも気が付いた。


「母上、私はそれほど軟弱ではありませぬ。父上のご指示の通り、また、神の声に従い、今後はこの朱理を、私の婚約者として傍に置くことをご容赦ください」

青英の、普段から低い声には一層力がこもっているようで、その聞き慣れない口調にも、戸惑いを覚えて、朱理は一瞬怒りを削がれた。

「…さっさと連れて下がるがよい。目障りゆえ」

そう言い捨てると、最後にもう一度朱理を一睨みした後、女王は謁見の間から姿を消した。王は、あれから最後まで、無言のままだった。


「よく、辛抱なさいました」

流が、そう労ってくれたけれど、朱理は、辛抱しきれていない気がした。素直にうんと頷くことができずに、曖昧に首をかしげた。

頭にかーっと血が上った感じが、まだ消えない。

でももし、美砂の「何を言われても、聞き流して」という言葉を思い出さなかったら、あるいは、ここへ連れられてきてからの一月がなかったら、とっくに一悶着起こしていたことだろうと、朱理は思う。

危なかった。母親のことを言われたときには。

あれからすぐに、女王が姿を消してしまわなかったら。間違いなく私は、このふつふつと沸き立つような怒りを爆発させていたはずだ。


「かっかすんな。余計暑苦しい」

「えええっ!?暑苦しい!?」

さっきの落ち着いた丁寧な口調が嘘のように、青英が言い捨てたので、朱理はまた怒りがぶり返した。
「流、下がれ。心配しなくていい」

「はい」

そう答えながらも、流がちらりと朱理を見ながら、部屋のドアから消えたこと、朱理は見逃さなかった。

「私が怒ってるから、流は心配してるって言うの!?」

「それ以外にないだろうが。危険物」

「き、危険物!!」

朱理は真っ白な頬が赤く染まるくらいの怒りを感じた。間違いじゃないから、何も言い返せないけれど、なかなか面と向かっては言われないことだから。


「私だって、青英と結婚なんてしたくない!!」


しまった、と思ったときには言い終わった後だった。


「いい度胸だな。俺もお前みたいな気の強いガキのお守りは、さすがに手に余る」

にやりと不敵に笑って、全く堪えていない様子で青英が言い返すから、朱理はますます真っ赤になった。
「お前じゃないし、ガキでもない!!」

「ぷりぷり怒って、どう見たってガキだろうが。全然怖くねえし」

「もう!嫌な奴!!青英のバカ!!ほんとバカ!!」

「てめえ、いい加減にしろよ」

あ、今度こそ言い過ぎた、と思い、朱理は口をつぐんだ。

両腕を強く掴まれて、朱理ははっとしたけれど、青英の顔を見上げても、そこに怒りの色はなく、いつも通りの静かで冷たい目が、自分を捉えているだけだった。

青英の右手が、朱理の左頬をすうっと撫でていく。

予想外のことに驚いて、見開いた朱理の目が捉えたのは、青英の唇が、声なく動いたところ。

「に、あ、う?」

唇の動きを読み取って、訊き返したけれど、青英は答えずに、すでに背を向けてドアに向かっている。

「風呂に入って先に寝てろ」

そう言われて初めて、ずいぶん夜が更けていることを思い出す。急に眠気を覚えて、朱理はバスルームに向かうと、その前に設けられた鏡の中の自分を見てびっくりしてしまった。


「ああ、今日からお化粧したんだったっけ」


いつもより、いくらか大人びて見える自分がいる。そして、真っ白なドレスは、この前初めて見た積雪のようだ。


「似、合、う…?」


まさか。

そんなことを青英が自分に言うはずない、と思う反面、それ以外に「にあう」の言葉が見つからない、とも思う。

「冷たいのか優しいのかどっちかにしろ!」

今度は別の意味で頬を染めて、朱理は独り言を言った。本当に、青英って何を考えているのかわからない、といつものように考えながら。


「私のこと、わざと怒らせた?」

ベッドの上で、胸に顔をうずめたまま、寝付けない様子の朱理の様子を、珍しいと感じていたところだ。突然そう言われて、青英は小さな笑みを浮かべた。

「お前が勝手に怒っただけだろうが。つまんねえこと考えてないで、さっさと寝ろよ」

ぐいと抱き直されて、朱理はかすかにため息を吐いた。

そうだろうか。あのとき、私の胸の中で、くすぶっていた怒りの炎を、解放してくれたような気がしたのに。

「じゃあ、『にあう』ってどういう意味?」

何て答えるだろう。どうせまともに答えそうにないけれど。

「そんなこと一言も言ってねえよ」

「そうだよね!」

朱理は、青英の返答が、予想通り過ぎて、額をごしごし青英の胸に擦りつけて、イライラ、ムズムズする感覚を消そうとする。
どうして、今夜は、青英の顔を睨みつけてやれないんだろう。

朱理は、そんな自分を不思議に思いながらも、結局はいつもどおり、その腕の中で深い眠りの中に落ちて行った。



そんなふうに、異国での生活を送りながら、朱理は19歳の誕生日を迎えた。
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