秘書の私、医者の彼

医者による的確な止血

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 その土曜は結局夜遅くまで、斉藤はろくに部屋から出てこなかった。

 夜勤明けで熟睡しているのかもしれないが、それでは昼夜逆転の生活になってしまう。

 次の出勤はいつなのだろう。時によれば日曜も出勤するだろうし。斉藤のシフトはとても気になる。

 そう考えながら、昼間のチャーハンのお返しのつもりで夜食を作っておくことにする。

 時間的には夜食だが、身体的には夕食なので、メニューをあれこれ考えた結果、親子丼を作ることに決めた。

 和食のあっさり味でありながらも、食べごたえがあり、若い寝起き男子に受けそうなグッドな夕食だ。

 自己満足しながら、手軽く作り終え、どんぶりを探す。

 ここへ来て初めて使うどんぶりは戸棚の上の方にあり、脚立の上に乗り、手を伸ばさなければ届かない位置にあった。

 まだ和紙が間に挟まったままのどんぶりが3枚も重なっていたせいで、非常に取りにくかったがなんとか手にすることができる。

 そこで、一瞬油断した。

 先に手からどんぶりが落ち、ガシャンと割れる音が聞こえる。

 しまったと思った時には自分の身体も大きく揺れていて、割れたどんぶりの上に見事身体が覆いかぶさってしまう。

 まず痛かったのはお尻だ。大きく尻もちをついてしまった。だが、お尻の下に陶器の破片がなかったのが、幸いだ。

 作った親子丼に破片が飛び散っていないか確認しないといけないことに気付いた時、右手の辺りが濡れていることに気付いた。

 咄嗟に親子丼の鍋がひっくり返ったのだと予測して、右手を引っ込めながら床を見る。

「あ……あ……」

 見たこともないような鮮血が手首から滴り落ちていた。

 血で、右掌、床、陶器の破片が染まろうとしている。

 バンドエイドやガーゼでは間に合わないと悟ったせいか、足がすくんでなかなか立ち上がることができない。

 呼吸を整え、なんとかシンクを伝いながら身体を起こす。

 医者……、こんなに血が出ているんだから、起こしても大丈夫だろうと、それでも気を遣いながら隣室のドアをノックする。

「ち、ちょっと見てほしいんですけど!!」

 歩いてきた床には血がぽとぽと落ちている。後の掃除が大変なことに気付いた河野は、血を止めようと、左手を右手首の上に乗せた。

「何だ?」

 意外に早く、中からドアが開く。 

 斉藤はすぐに血に気付くと、河野の右手首を取り、自分の手が汚れるのも構わず傷口を確認した。

「静脈が切れてる。そこに寝てろ」

 手を離すと、斉藤はキッチンに入って行く。

 タオルでもとるつもりなのかと、河野はとりあえずその場に座った。

 じょうみゃく……、結構深く切ったということなのだろうか。

「寝てろ」

 ビニール袋を手に持った斉藤は、再度指示する。

 河野は言われるがままに、床に仰向けになった。

「止血する」

 右手首の側に回り込み、まず綺麗なタオルで押さえ、その上からビニール袋を手にはめた手で抑え込む。

 わけがわからないし、床に落ちている血液を再度確認すると、なんだか気持ち悪くなってくる。

 河野は目を閉じた。

「もしもし……救急車一台」

 斉藤が電話していることに気付き、目を開けた。

「救急車で行くんですか!?」

「2~3日は入院だ」

「えっ!?」

 確かに手首は痛いがそれほどのことなのかと、驚いて目を見開く。

 斉藤は電話で一通りのことを要求すると、すぐに切る。

 止血は両手でするのが良いようだ。

「破片で切ったのか……。皿くらい無理に取らなくても呼べば取ってやるのに」

 見下されてそう言われても、返す言葉が出ない。

「……寒いか? 」

 そんなつもりはないが、言われて初めて、何故か身体中がガタガタ震えていることに気付いた。

「…………」

 河野はただ、斉藤の目を見つめた。

「ちょっと待てよ……」

 言いながら、素早く自室のドアを開け、布団を取り出すと、バサリと豪快に被せる。そして再びすぐに止血にまわった。

「もう少しだからな、もう着くだろう。……気分が悪いか?」

 最少はどうもなかったのに、段々、会話をするのが疲れてくる。

「布団で温めているからな。少しずつマシになるだろう」

 確かに、そう言われればそんな気がしてくる。

「…………」

 目を閉じて寝たい。そう思いながらも、何か話しかけられる気がして、開けておこうと頑張ってしまう。

「目閉じてた方が楽だろ。閉じてろ。それだけで全然違う」

 救急車が来るまで、少し閉じていよう。

 何か話しかけられたら開こう。

 そう思っていたはずなのに、救急隊が来て、辺りがざわめき、自分の身体が担架に乗せられたのが分かっても、目を開くことはできなかった。

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