秘書の私、医者の彼

夜空を見上げて


 アパートの屋上が解放されているのは知っていたが、わざわざ夜景を見に来たのは初めてである。

 河野はゆっくり屋上へ上がる斉藤を待ちきれずに先にドアを開けて、外の冷たい空気を吸った。

「綺麗……」

 先に目に入ったのは、夜景の方だった。そうではないことを思い出して、真上を見上げる。

「よく星が出てますねー」 

 河野は遅れて来た斉藤に話しかけながら、フェンスまでゆっくりと歩く。

 フェンスは端よりだいぶ内側に立てられており、ここから真下を覗くことはできない。河野はそれを確認すると、もう一度空を見上げた。

 ふと視線を下げると、斉藤はフェンスに背をもたせ、両腕をかけて、静かに真上を眺めている。

 見つめている、というよりは、眉間に皴が寄り、何か考えている、の方が表現としては正しい気がした。

「…………」

 話しかける言葉も見つからない。

 斉藤が兄のことを乗り越えるられるといいなと思いながら、もう一度夜空を見上げる。

「今日は眠れそうな気がする」

 久しぶりに口を開いた斉藤は、真上をじっと見つめたままだが、顎の骨がくっきり出て実に色っぽい横顔だ。

 河野は余計な思考を一瞬で遮断して、会話に集中する。

「……寝てないんですか……最近」
 
「酒飲んで寝ても、すぐ目が覚めちまう。おかげで寝覚めも悪い。まともに飯食ったのも久しぶりだし、誰かと話したのも久しぶりだ」

「…………そうですか……」

 笑顔を隠すように、河野は斉藤と同じように空を見上げた。

「風呂入って、寝る」

 突然斉藤は、前へ進みだす。

 河野も慌てて、その後に続こうとして小走りになると、斉藤が急に後ろを振り返った。

「お前、先入るか?」

「えっ?」

 思いもよらない一言に、全身が固まった。何を意図しているのか、全く読めない。

「じゃあ、俺が先に入る」

 後先の順番に一体何が関係するんだろう……、まさか、そんなはずはない。

 河野は先読みして止まらない自分を精一杯制止つつ、斉藤の背中を追う。

辺りが暗いせいで、赤面する頬を誰にも見られなかったのが幸いだと、1人余計なことを考えながら。
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