行きはよいよい 帰りはピーポーピーポー

硫化水素

 植物がほとんど生えていない、岩だらけの場所を彷徨っている。絶え間なくぶくぶくと岩石の割れ目から泡が噴き出し、もうもうと白い湯煙が立ち上っている。自分を取り巻く空間が不自然に歪んで見える。
 どうしてこんな所にいるのか? 何をしようとしているのか? どこへ行こうとしているのか? 見当も付かない。
 もともと左足の動きは正常じゃないけれど、足取りが危なっかしいのは、地形のせいばかりじゃなさそうだ。眩暈や吐き気がしてきたのは、どうやら岩石の割れ目から出ているのが、水蒸気だけじゃないかららしい。
 卵が腐ったような臭いが漂う。岩石を覆っている、美しいレモンイエローの結晶物は、硫黄らしい。
 このままここに留まれば、有毒ガスに巻かれてのたれ死にするのだろうか? 
 そんな不安に襲われた時、足下がぐらつき、ガラガラ音を立てて勢いよく崩れ落ちた。
 底知れぬ漆黒の奈落が、大きな口を開けた。
 悲鳴を上げながらどこまでも落ちていく。煮えたぎる血の海に着水した途端、強烈な衝撃音を立てて肉体が消滅した。
 次の瞬間、光も音もない世界にいた。
 肉体が滅んでも意識が存在する。肉体の死は一切が無になることを意味しない。
 ふと真実に目覚めた時、意識が飛んだ。

 由理阿は激しい頭痛と喉の痛みとともに覚醒した。
 硫黄のような臭いが鼻を突いた。最初に頭に浮かんだのは、ゆうべの入浴剤だったが、すぐにその程度の臭いではないことに気がついた。
 まさか硫化水素では?
 ぞくぞくっと身も凍るような戦慄が全身を駆け巡った。
 パジャマのまま外に出てみると、異臭は隣から漂ってきていた。
 このままここにいては危ない。本能が覚醒し大警鐘を打ち鳴らしていた。
 部屋に戻ると、最初に目に入ったタオルを引っつかんだ。口と鼻を覆いながら部屋を出て、階段を下り始めた。こんな時、足の障害がくやしかった。どんなに心がはやっても、足は思うように動いてはくれない。
 お願い助けて! 本当に神様がいるのなら、どうかお助けください!  
 普段神頼みなどしないくせに、一心不乱に祈っていた。
 どうにか下りきった時、眩暈がして膝から崩れ落ち、地面に手を付いて吐いた。
「ピーポー、ピーポー」
 救急車のサイレンが聞こえてきた。数台が近くまで来ているようだ。
 救急隊員たちは現場に到着すると、息つく間もなく救助活動を開始した。一人が由理阿を救急車に収容している間に、もう一人が2階に駆け上がって行った。防護服を装着し、検知器を携えていた。
 硫化水素が確認されるやいなや、下で合図を待っていた別の一人が、拡声器で周辺住民に呼び掛けた。
「只今、アザレア荘2階で硫化水素の発生が確認され、現場周辺立ち入り禁止となりました。周辺住民の方々は、安全のため速やかに大多喜地区集会所へ避難していただくようにお願いいたします------」
 他の五人全員が、アパート全体を駆け回り、住民の安否確認・救出・避難誘導に当たっている間に、防護装備の隊員は、「有毒ガス発生中」と貼紙が貼られた部屋に突入していた。
 ドアを開けた隊員の目にまず飛び込んできたのは、壁一面に張り詰められたアニメのポスターと、部屋中に所狭しと並べられたアニメグッズだ。アニメショップの店内に迷い込んだような錯覚を覚えながら、すばやく部屋の中を見回す。人の姿はないが、テーブルの上の開かれたアニメ雑誌と飲み掛けのコーヒーが、少し前まで誰かがいたことを物語っている。
 ドアが閉まっている浴室に向かう。ドアを軽く引いても開かない。力任せに開けると、内側からガムテープで目張りがされていた。
 倒れていた男の回りには鍋や薬品の空き瓶などが転がっていた。
 所々剥けた皮膚には緑色を帯た死斑が表れている。顔は黒緑色に変色し、口からはどす黒い血が流れ出ている。歯を食いしばった表情は、想像を絶する断末魔の苦しみを物語っている。アメリカのゾンビー映画を思わせる、見るに忍びないむごたらしい屍だ。
「きれいに楽に死ねる」なんて真っ赤な嘘を、誰が流しやがったんだ。
 胃液が込み上げ、喉の奥に酸っぱい感覚が走った。

 浴室を出る前に振り向いた際、自殺者と目が合った。
 ふと記憶の奥深くから、築地市場のまぐろのせり場のシーンが浮かび上がってきた。あの日着いたのは、せり開始前の早朝5時だった。見るからに頑丈なコンクリート天井とコンクリート床の間にはめられた、巨大な木の引き戸は開け放たれていて、そこから見えるまぐろのせり場は、体育館ほどの広さがあった。
 一歩中に入ると、覚醒しきっていない霧のかかった意識の中、全身凍るような感覚に襲われながら、口を開けてごろりと横たわる、真っ白に凍ったまぐろの群れを眺めていた。
 解体され、トロや赤身などに切り分けられて、店頭に並べば食材だが、これじゃ死体安置所じゃないか。
そんな思いが頭をよぎると、死体の群れから霧のように立ち昇る白い冷気が、抜けていく魂のように見えてきた。
 自殺者は、あの日のまぐろの死体と同じ目をしていた。指で摘めば、いとも容易くめくれてしまいそうな、ゼリー状の目だけが、何かを訴えているようだった。

 救急隊員の任務は人命救助で、現場検証は警察の仕事という認識はあったが、死人の遺留品には常に興味をそそられた。生きていた時の生活を垣間見ることができるから。
 テーブルの傍らに落ちていた、一枚の写真を拾い上げる。若い女が一人写っている。服装と化粧のセンスがいい。アパレルか美容関係の仕事をしている感じだ。
 気になるのは、カメラに向かってポーズを取っている風ではないことだ。どうやら路上で盗撮されたらしい。だだ一つ尋常ではないことは、針のような物で突いた跡らしく、女の体が無数の穴で覆われていることだ。
「------何だ? ストーカーだったのか、このオタク野郎。自分の命を無駄にするだけじゃ納まらねえで、女に呪いまで掛けてやがったのか。俺、警察じゃねえけどな、お前らみてえな奴は許せねえ。娘がな、4月から高校に入学したんだ。何かと誘惑が多い年頃だから、これまで以上にお前らから守ってやらにゃならんのよ」
 これまで数え切れない若者の自殺現場を見てきたが、いつも残された家族の悲しみを思うと、やはり胸が痛む。そして、今回は自分も娘の行く末を案じる年になったんだなと自覚した。
 針穴だらけの写真がもう数枚、机の引き出しの中に仕舞われていることなど、知る由もなかった。
 写真が挟まれている、100円ショップで売ってそうなメモ帳のページには、遺書めいた走り書きが残されていた。

「樹里さん、ごめん。俺があんなことさえしなければ------。
 だけど、こんなことになるなんて、夢にも思わなかったんだ。
 知らなかったんだ、生きてる人間の憎しみや恨みの念にこんな力があるなんて。
 だけど、人を呪わば穴二つ。君の後を追って地獄で償うよ。
                                  末広」

 自殺にも流行り廃れってもんがあるけど、密室でやる自殺にしても、ちょっと前に流行った練炭自殺のほうがまだましかなあ? 硫化水素と違って、練炭は巻き添えを出さなかったもんなあ。今じゃ俺らも命賭けだ。おとといここから目と鼻の先の所であった踏切自殺も、また別の意味で多くの人に迷惑をかける。またいつか首吊りに戻ってくれればなあ。涎と鼻水が垂れて舌が飛び出した死顔と、臭いしょんべんさえ、俺らががまんすれば済むもんなあ。睡眠薬も人に迷惑かけねえなあ。やっぱ誰にも迷惑かけねえ死に方といえば、富士の樹海かなあ。
 そんな思いを胸に部屋を出る頃には、他の隊員たちも上がってきていた。
 後は、毒ガスの濃度が下がった頃にやってくる警察の仕事だ。

 事の発端は2月程前に遡る。ようやく梅雨が明けようとしていた頃だった。
 通勤ラッシュも収まった朝9時半のバス停。リックサックを背負ったまま浅くベンチに腰掛ける末広の姿があった。コンビニで売ってそうなビニール傘から、ぽたぽたと滴が落ちている。
 ピンクの傘が近づいてきたかと思うと、それまで見かけたことのない女が姿を現した。
 レンズの大きい銀縁眼鏡の奥からそっと覗くと、ベージュの長い髪がよく似合う清楚な顔立ちだった。
「よく降りますねえ。バス遅れてますかあ?」
 単調な雨音の中、爽やかな声が心地よく響く。
「あ、はい」
 続いて末広のどぎまぎした声がした。
 隣に腰掛けてきた時、柑橘系の匂いがほんのり香った。
 最近越して来たのかなあ? 26、7ってとこかなあ? どこに勤めてるのかなあ?
 彼氏いるのかなあ?
 左手の薬指にちらりと視線を向ける。指輪をしていない。
 いなさそうだなあ。
 思わず顔がほころんでしまった。
 ところが、彼女が右手で髪を触った時、指輪が見えた。ということは、いるのかもしれない。もうわからなくなってしまった。
 隣で携帯メールをチェックし始めた女に、末広の思考が支配されつつあった時、すーっと白い手のひらが差し出された。末広は、黄色い飴よりも薬指の赤い指輪のほうに注意を引かれた。
「よかったら、お一つどうぞ」
「ど、どうも」
 飴から口一杯に爽やかなレモン味がゆっくりと広がっていく。末広は、口からこぼれる唾液を舌ですくった。
 そんな風に二人は出会ってしまった。後は、破滅に向けて一直線に転がり落ちていくのみだった。
 その日を境にして、末広はバス停ばかりか駅やスーパーでも、偶然を装って彼女に付きまとうようになったが、それは、就業前後と週末の執拗な追跡と待ち伏せの成果に他ならなかった。
 恋人がいようがいまいが、もうそんなことはどうでもよかった。末広の一方的な気持ちは止まることを知らなかった。やがて、抑えられた想いが胸の中から溢れ出すのに任せるしかなかった。
 ある日、彼女の帰宅時間に合わせて、駅前のスーパーで待ち伏せしていた末広は、その姿を視界に捉えるなり、さりげなく近づいた。
「あっ、樹里さん、こんばんは」
 声がうわずっている。
「あら、末広さん、こんばんは」
 樹里は言葉に詰まり、愛想笑いをした。
「偶然ですねえ。仕事の帰りですか?」
 末広の心臓が高鳴っている。
「ええ------」
 樹里は下を向き、消え入りそうな声で言う。
 そのまま自然な流れで、他の買い物客の中に混じろうとするが、末広がにじり寄ってきた。
「------あの――、樹里さん、もしよかったら------、今度の週末に一緒に映画でも観に行きませんか?」
 樹里は表情を曇らせた。
「えっ、あの――、ごめんなさい。土日も店開いてるんですよ。デパートの休業日しか休めなくて------」
 それだけ言って立ち去ろうとする。
 予想通りの返答に、末広は心の中でにやりとする。
「じゃ、仕事の後はどうですか? 一緒に夕食をして、その後、映画っていうのはどうですか?」
「ごめんなさい。それが、この頃忙しくて、仕事の後は疲れてて------」
 小走りに逃げていく樹里の後姿を追っている、銀縁眼鏡の奥から覗く目が、異様な光を放っていた。
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