隣人M

「克己」との対話

克己は自分のマンションの入り口の階段で、一人ずっとうずくまっていた。夕夏が、あと一時間経ったら「シャンパニオン公園へ行く」と念じろと言って、特殊な時計を置き、どこかへ去ってからもうだいぶ経った。


様々に変わる風景の中で、このマンションだけは少しも変わらず、克己が腰を下ろしている辺りも冷たくしっかりしており、その存在を確かめたいだけで彼はそこから動こうとしなかった。


少しでも腰を浮かせたら、全てが消えてしまうような気がして、怖かった。


夕夏……さん。早く戻ってきてくれ。椎名さんが俺のところに来る前に。もちろん死にたくない。でも、何かしなければいけない気がするんだ。何かの約束が……誰かとの約束が……あったような気がして。克己……もう一人の俺……頼むから教えてくれよ。いつもそうだ。あんたの姿なんてちっとも見えやしない。いつも夕夏さんや椎名さんの口から語られるだけだ。俺はそんなに好かれるような奴じゃないのに……。


……俺はそんなに好かれるような奴じゃない。


誰かが克己の耳元でゆっくりささやいた。克己はびくっとして伏せていた顔を上げた。


「誰だ?椎名さんか?」


……結城克己。克己だ。俺、は、克、己……。


「克己……さん?あんたなのか?」

克己は思わず「さん」をつけて呼んでいた。実像の見えない、もう一人の……いや、夕夏さんや椎名さんに言わせれば、「本当」の克己。


……今の俺は、メチャクチャだ。狂ってる。何も一人ではできない。


「全くだよ。とんだ迷惑だ」


……だが、一つだけできることがあった。


「都合のいい夢の中に逃げ込んでしまうことか?さぞ快適だろうな!」


……君がうらやましい。


克己は舌打ちした。その様子に、「克己」は気持ち良さそうに笑った。声が聞こえないのに、姿も見えないのに、克己にはそれがよく分かった。「克己」が、ちょっと手を動かしたことも、ゆっくり息を吐いたことも。そして、指で肩をなぞったことも感覚としてとらえられる。


……痛いか?


「あんた、何をした!?」


……何もしちゃいないよ。俺がいる所がさっき爆発してね。


「爆発!?」


……ああ。それで、ちょっとケガをした。かすり傷だ。


「大丈夫……なのか?」


……心配はいらない。山口あすかが助けてくれたよ。


「山口……なぜ?」


……いい子だった。俺も予想していたんだがな。山口が、やがてやって来ることに。夏彦も危険を察知していたはずなのに。


「あんたが言っていることが分からないよ」


……山口は背中に傷を負った。今、ここに倒れこんでいる。出血がひどいようだ。意識はあるから、なんとか応急処置を自分でしているが……。


「俺には、何もできないよ……」

……夏彦……夏彦が、来た……。


それっきり、プツンと糸が切れたように、全く声は聞こえなくなった。代わりに克己の前に立っていたのは、少し背中を曲げて荒い息を吐き、それでも笑みを浮かべている椎名だった。
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