幸せまでの距離



心地良い陽気。

ここに運び込まれたあの日以来、カナデ は初めて、病室から抜け出す気になっ た。

傷つけた手首の回復は早く、じきに退院 できそうな感じだが、精神的な問題で、 日常生活に戻るのを拒みたい心持ちであ る。

けれど、こうして助かった命なのだか ら、苦しくとも日々の生活に慣れなくて はならないという考えもあった。


トウマに捨てられ絶望し、衝動的に自殺 をはかった時、カナデの中にあった死の イメージは変わったのである。

死を悲しむのは残された人間だけであっ て、自らの意思で死を迎える人間は必ず しも悲観的になっているわけではない、 と。

なぜなら、自分がそうだったからだ。

意識を失う直前、カナデは、これまでに 感じたことのない快楽を覚えていた。そ れは、睡眠不足の時に柔らかいベッドに 寝そべることを許された時以上に、解放 的で気持ちの良い瞬間だった。

トウマのことをはじめ、世の中への未練 はたくさんあったはずなのに、意識を失 う前になると、そんなことどうでもよく なってしまった。

だからこそ、人は簡単に死ねないように 出来ているのかもしれない、と、今に なって思う。

そして、自殺を選ぶ人間が楽になれる 分、残された者の悲しみや後悔は深くな るのだろう、と……。


入院初日。普段、楽天的で友達のように ひょうきんな母が、ベッド脇で泣きじゃ くりながら言っていた。

「カナデが死んだら、私も一緒に死ぬか ら! だって、カナデのいない生活、私 には考えられないもの!

黙っていなくなるなんて、絶対許さない から…!」


“お母さん、ありがとう。あんなに泣か せるなんて思わなかった”

風俗で働くと決めた日、何でも自分で やってきたような気になっていたけど、 いかに母親に愛されているのかを知り、 カナデは自分の弱さに負けずに済んだ。

病室の外は、心なしかベッド回りより空 気が良い。なんとなくロビーへ足を向け る。

途中、ケガや病気で入院中の人々とすれ 違った。前向きに治療をしているのか、 どの人の顔も清々しい感じがする。

そう見えるのは、自分の気分が完全に晴 れていないせいかもしれない と、カナデは思った。
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