一夜一緒にいれば、奪えるのに

 こちらとしてはあわよくば、隆夫の言葉を借りれば乗っかってやろうと思っていたわけだが、実際同じ部屋にいると思うだけで何もできないし、しようという勇気も出なかった。

 だが、客観的に見れば、今の状況はもしかしたら、野瀬から誘っている、と取れないでもなかった。

「髪も綺麗……」

 隆夫が言うには、野瀬は酒に強いらしかった。

 いやでも、今はまだビール1本しか飲んでいない。

 なのに野瀬本人はこの様だ。

 ソファに浅く腰かけた私の、背中の真ん中まである髪の毛をじっと眺めて、一言、二言……。

「伸びたよね。随分。最初は短かったけど。入社した時はボブカットだったよね。それからはずっと今の長さくらいをキープしてる」

 そこまで見られていると思いもしなかったので、カッと頬が熱くなった。

 鼓動が早くなる。

「僕はもっと長い方が好みかな……」

 返す言葉が見つからなくて、黙ってしまう。

「綺麗な髪の毛を見つめながら飲むビールも、悪くないね……」

 どうしよう、という言葉が頭を回る。

「……よ……酔ってますね、課長……」

「酒飲んでる時に課長はないよ。

 名前でいいよ」

 いやまさか、慶吾(けいご)って呼ぶわけにはいかないでしょう!?

「……野瀬……課長……」

「それ、全然名前じゃないし。苗字だよ」

 野瀬は普通に反論した。

「もしかして……名前、知らない?」

「そんなまさか、知ってますよ!! 慶吾さん。漢字も分かります!!」

「それなら良かった。いや、苗字か役職でしか呼ばれたことないから、もしかしたら知らないんじゃないかと思って」

「そんなわけないですよ!!」

 自分の上司の名前を知らないなんて、そんなはずない。それは常識の範囲内だ。

「そんなわけないか。
 堺さん、俺のこと好きだしね」

 ……た、隆夫メ…………!!!

 どこに向けて良いか分からない怒りを、とりあえず隆夫に向けることにする。

「……あれ、違う? 何か言って」

 野瀬は完全にこちらの反応を面白がっている。言葉の端々に含み笑いが聞こえた。

「み、みんな好きだと思います。課長は人気ありますから」

「またまたー、無難な答え」

 そこで野瀬は身体を起こしてトンとテーブルに缶を置き、またすぐ元の位置に戻る。2本目が空になった証拠だ。

「ごめんねー、結構酔ってる」 

 後ろから、髪の毛を触られた。

 手櫛のように梳いたり、撫でたりを繰り返していて、身動きがとれない。

「課長……酔い過ぎです……」

「うん……今日は朱莉ちゃんが来る前から飲んでたからね。今ちょっと眠い。……起きたら、記憶ないかも」

 朱莉ちゃん……。

「そんな、弱いんですか? お酒」

 記憶ないかも、という言葉が頭をぐるぐる回る。

「いや……朱莉ちゃんが来る前に2本飲んでるから。結構飲んでるよ」

「……記憶、結構なくなるんですか?」

「わりとね。年とったからかなあ。弱くなったのかもしれない。そういう飲み方はいけないって分かってるんだけどね。

 今日はまあ、色々あるけど。そもそも鍵かけとけば大丈夫だしね。カーテンも閉めたし、ロックもしたし、第一目に届く所にあればもう大丈夫かな、と」

 どうやら隆夫があれこれふっかけたことは最初からそれほど聞いていなかったようだ。

「そう……ですよね……」

「そう……」

 野瀬の手が、髪の毛から頭の上の方に移動し、今度は頭を一度撫でる。

「よっ……」

 手が離れたな、と思ったら起き上がって体勢を整えているようだ。

「ちょっとそれ、味見させて」

「えっ? はい」

 私は、深く腰かけている野瀬に缶を渡そうとする。

 と、右手首を掴まれた。

 缶と手が分からないくらい、酔ってる!?

 だがそういうわけではなく、野瀬はすぐに空いた手で缶を取り、テーブルに置くと、

「逃げないでね」

 手首を引かれ、野瀬の胸になだれ込んでしまった。

 目の前には白いティシャツしか見えない。

「好きって気付いてたよ」

 野瀬は私の体勢を上手に整えると腕の中にすっぽりと収める。

「話しかけたらすぐ顔赤くなるし……」

「酔い……すぎです……」

 身を動かせて、抵抗の意思を見せる。そうしないと、いけない気がした。このまま酔った野瀬に身体をあずけてしまっても、野瀬を後悔させるだけのような気がした。

「酔ってたら、ダメ?」

 上から見下ろされて、目が合う。私は咄嗟に逸らした。

「こら、目ぇ逸らすな」

 野瀬は笑いながら、顎を掴んでくる。

「酔ってるよー……記憶、なくなるくらい」

 そして、顎を持ち上げて、目を合せさせ、

「けど、今からすることだけ、忘れないかも……」

 唇が落ちてくる……怖くなって目を閉じ、身がぐっと固まっていくのを感じた。

「大丈夫」

 優しい声にそっと目を開ける。

「するったって、大したことじゃないから」

 ……何のこと!? 気になったが、聞くに聞けない。

「あの……課長……」

「課長……どの課長?」

「野瀬課長……」

「名前で呼んでって言ったじゃん」

 不意に唇にキスされる。

 あまりに驚いて、目を見開いて俯いた。

「課長はいらない、今は慶吾でいいよ。むしろ慶吾じゃなきゃダメ。返事しないからね」

 野瀬は私の背中を上下ゆっくりさすりながら、注文をつけてくる。背中の手が上下する度に、下着のラインがはっきりと浮き出てくる。野瀬ももちろんそれに気づいていないはずはなかった。

「あの、酔い過ぎです……」

 抵抗のつもりで身を少し捩る。

「誰がー?」

 名前で呼べと指示されたことは分かっている。だが、それに応えるわけにはいかないのが部下だ。

「……課長です」

「こら」

 額に髪の毛の上からキスされた。

「こうしよう……。課長1回につき、1キス。キスされたかったら、課長って呼んで」

 ……悪酔いする人だったんだな……。

 いつもの野瀬じゃない。ここまで言われると、逆に引いた。

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