more than words

 雨が降っているらしい。真夜中過ぎのもう誰もいないライブハウス。かすかに雨の音がしている。僕は後片付けをしていた手を止めた。雨の中、バイクで帰るのが億劫になった。奥に行けば、ソファもある。今日はここで寝てしまおうか。
 用があるという店長に頼まれて、店じまいを引き受けたが、雨になるのなら早めに帰ればよかったかもしれない。まぁ、いいけど。
 どうせ急いで帰っても誰が待っているというわけでもないのだし。
 何となく溜め息をついて、片付けを済ます。ゴミをまとめて隅に置き、電源を落とす。最後にステージの電源を落とそうとして、薄暗いステージにまるで見捨てられたかのようにギターがおいてあるのに気づいた。まるで自分の姿を見ているようで、僕は消そうとした明かりをそのままにその場に座り込んでギターを抱えた。かなり前に捨ててしまってから、アコースティックなんて弾いてない。無造作にざらっとコードを鳴らしてみて、自分ながら愕然とする。この音。まだ覚えていたのか。もう思い出すことさえなかったのに。
 昔、こっぴどく振られてしまった女の子。二十歳そこそこだったのに、妙に大人びた表情をしていた。その女の子が好きだった、曲。“Morethan word”。
 せがまれるままに何度も弾いた。歌うことさえ、あった。嬉しそうに笑う彼女の顔が見たくて。口下手な僕には他に彼女を喜ばせる手段がなかった。今思うと我ながら、いじましい。
 何度も弾いたからだろう。自然に手が動く。身体が覚えている、という奴だ。昔の習慣そのままに、僕は知らないうちに歌っていたらしい。ふと気づくと、知らない声がハモっていた。透明な、少女の声。僕はぎょっとして、手を止めた。古い、他に誰もいない筈の、ライブハウス。他の明かりは全て消してしまっているので、ステージだけが不気味に明るい。いつの間にか激しくなった雨音だけが、屋根に響いている。客席を見て、僕はぞっとした。びしょ濡れのおかっぱの少女が立っている。
 座り込んでいたから腰を抜かす気づかいはなかったが、声も出なかったのは相当驚いていたからだと思う。僕は黙ったまま、じっと幽霊を見つめた。少女は手を止めた僕を、残念そうにじっと見て、ゆっくりとステージによじ登ってきた。そして僕の傍らに膝をつき、妙に色っぽく笑った。
「歌も歌えるんだ。気に入っちゃったな」
 ふふ、と笑って、彼女はじっと僕を見て、顔も好みだし、と呟いた。青白い顔に濡れた髪が一筋はりついて、物凄い。
「ね、お姉さんのつばめにならない?」
 僕は三秒黙ってその少女の顔を見た。それからようやくほっと息をついた。
「からかわないで下さい」
「あら、酷い。それが、返事?」
 呪縛が解けた。僕はギターを置いて、立ち上がった。店の隅でタオルを探し、彼女に放り投げる。タオルは彼女の身体を通り抜けたりはせずに、頭に落ちた。幽霊じゃない。生身の人間だ。この界隈では歌姫と言われている。ピアノの弾き語りを生業としている彼女は少女のような姿で、それでも僕よりかなり年上な筈だった。
「店長はもう帰りましたが」
 ごしごしと乱暴に濡れた髪をこすっている彼女に言うと、彼女はタオルの間からひょこっと顔を出して拗ねたように頬をふくらせた。
「そう。酷いわ。約束してたのに」
「約束?」
 聞き返した僕の言葉は彼女には聞こえなかったようで、彼女はタオルをすぐ側の椅子の上に投げ出すとステージのピアノの椅子に座った。そしてざらっと指を走らせる。店長がいないからといって、帰る気はないらしい。店仕舞だと言っても仕方がない。僕は諦めてグラスに氷を落とした。
「あ、私、バーボンがいいな。ワイルドターキー」
 言われるままに作ったグラスをピアノの上に置くと、ようやく彼女は顔を上げた。そして僕が一つしかグラスを持っていないのに気づくと少し不満そうな顔をした。
「あら、私だけ?」
「生憎、バイクなもんで」
 これを飲んだら帰れと、暗に告げたつもりだった。何といっても真夜中だ。
「店長には伝えておきますけど?」
「用はね、もう済んだようなものなのよ」
 くいと一息で、かなり入っていた筈のバーボンを飲み干して、彼女はにっこりと笑った。からからと空のグラスを振って、もう一杯ほしいな、と僕を見上げるので、仕方なくまたカウンターの中に入った。その間に彼女は身を屈めて、薄い鞄の中をかきまわして数枚の紙を取り出した。
「実はね、恭ちゃん、あなたにに会いに来たのよ」
 『恭ちゃん』なんて呼ばれるいわれはない。歌姫のステージは何度か聞いたが、個人的に言葉を交わしたことはなかったはずだ。ただ、店長と話している姿は何度も見ている。嫌な、予感。
 僕は片眉を上げて見せて、黙ってグラスをカウンターに滑らせた。それを今度はちびちびと飲みながら、彼女は提案した。
「ね、私とユニット組まない?」
 つばめにならないかと言われるよりはましな、提案だった。丁度今日付けであるバンドからお払い箱をくらったところだし。だけど。
「ピアノと、ベースで?」
「あとは、打込で。とりあえず、これ、楽譜。それと、コーラス、してほしいな」
 コーラス。僕はまじまじと彼女を見た。ギターなら、多分弾ける。お遊び程度で、ドラムを叩いたこともある。だけどステージで、歌ったことはない。彼女は素知らぬ顔で、茶色の液体を舐めている。僕は仕方なく楽譜を広げた。歌姫の作詞作曲。奇妙な節、奇妙な歌詞。ベースのパートは大して問題はなかった。そして、問題のコーラスがあるのは、最後の部分だけ。『君を永遠に僕は愛し続ける。君だけを僕は愛し続ける』。そのリフレイン。いかにも女の子が考えそうな、恥ずかしい歌詞だな。そう思って、ざっと前から歌詞を見返す。そして何となく彼女を見直した。それは時の止まった王国に二人で住んでいるという歌で、『僕』は彼女を玉座に座らせて、輝く偽りの歌を刻みつける。その偽りの歌、というのが、僕のコーラス。
「すぐに答えなくてもいいわ。一晩、考えてみて」
 彼女はそう言って、ちゃらちゃらと手にしたものを振って見せた。車の鍵。傍らのグラスは空になっている。
「あなた、飲んでないのよね?」
 私、車で来たの。彼女はそう言って、にっこり笑った。僕は諦めて、溜め息をついた。
 雨はまだ降り続いている。つまりそれが僕と彼女、笙子さんの出会いだった。
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