未来の記憶
 僕の彼女は、未来の記憶を持っている。いや、持っていた、と言うべきか。

 無個性な白い部屋。清潔なシーツ。ぽとぽとと単調なリズムでくり返される、点滴の音。枕許の花瓶には、そこだけ殊更に鮮やかなオレンジのガーベラ。そしてベッドの上にいるのは、眠り姫。漆黒の長い髪を枕に広げ、あどけない童女のような顔で眠り続ける。今にも目を覚まし、僕を認めてにっこりと笑顔を見せてくれそうで、だけど彼女は今日も目覚めない。その日も僕は、なす術もなくその寝顔をじっと見つめていた。
「眠り姫を目覚めさせる方法、知ってます?」
 不意に後ろから声をかけられて、びっくりする。慌てて振り向くと、そこに眠り姫の妹が立っていた。飽きもせず、また色鮮やかな花束を抱えて。どうせ彼女は見ないのに。
「知ってはいるけど、ね」
 僕は仕方なく、苦笑する。彼女も困ったような微笑を浮かべた。あまり似ていない姉妹だが、そんな育ちのよさそうな笑い方は妙に姉に似ていた。
「趣味じゃないかしら?」
「じゃなくてね」
 僕は視線をそらせて呟いた。
「それでも目覚めなかったら、救いがないし」
 その言葉を、彼女は聞かなかったことにしたらしかった。一頻り、あちらこちら好き勝手な方向を向いている花を体裁よく花瓶に突っ込む作業に没頭する振りをする。そしてそのまま、口を開いた。
「尚也さんが、悪いんじゃないと思います。でも今から思うと、式の前日のお姉ちゃん、何だか変だった」
「変、って?」
「私が部屋を覗いたら、お姉ちゃん、窓の外を見て、凍りついたようにじっとしていたんです。凄く、怖いものでも見たみたいだった。それから、何しても上の空で、おかしかった。両親は式前夜だからナーバスになってるんだろう、って言ってたけど」
「凄く、怖いもの」
 彼女の言葉を反芻し、彼女の部屋の窓から見えるものを思い出す。何度か足を踏み入れた彼女の部屋は、通りに面したマンションの三階だった。だから、見えるのはそこを行き交う車くらいだと思う。それは僕らの新居から駅までの最短距離なので、今でも普段よく使う道だった。一車線しかない大して広い道ではないが、近くに大きな工事現場があるので、昨年あたりから大きな車がよく通るようになっている。そこであった事故でも見たのだろうか。
 僕が考え込んでいると、彼女は不意に話題を変えた。こちらに背を向けたまま、口を開く。
「両親は、もう姉のことは忘れてほしい、って言ってます。籍が入っている訳でもないのに、いつまでも待たせるわけにもいかないから、って。多分、もうすぐ正式に伝えに行くと思いますけど」
「忘れろ、って?」
 思いがけないことを言われて、僕はきょとんとする。ようやく納得が言ったのか、彼女は花瓶から目を離して僕をまっすぐに見つめた。
「このまま尚也さんを縛っておくわけにもいきませんし」
 縛る。縛られているのだろうか、僕は。
 僕はもう一度眠り続ける美紗を見た。本当なら、とうに僕の花嫁になっている筈だった彼女を。
 もう三ヵ月が過ぎようとしている。だけど僕は未だに事態が把握できないでいる。一体、彼女に何が起きたのか。どうして、彼女は眠り続けるのか。
 白い教会の中で、間抜けな白い式服で、花嫁の父親が土下座して僕に謝るのを、ぼんやりと見ていた。あの時のまま、まだ僕は混乱している。
 彼女が憧れた白い教会に、しかし彼女はその日、現れなかった。
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