Let's study!!
20歳 Autumn

私の中の堤防は、とうとう決壊してしまったのだろうか?

「うわあ、みいちゃん着いたって」

携帯の画面を見て、莉子が慌てて立ち上がる。

これから、莉子の中学時代からの親友が、東京の莉子の家に泊まりに来るそうだ。

「送っていく」

廣太郎が席を立つのを制して、莉子はわたわたとバッグを拾いながら首を横に振った。

「大丈夫。ここの最寄り駅に来てもらったから。みいちゃんに会えたらすぐメールするね」

莉子は意外にしっかり者だ。できるだけ人に気を遣わせないように先回りしてる。

ここから最寄り駅まではゆっくり歩いても2,3分ほどしかかからない。「すぐメールする」ってところは廣太郎が長い時間心配しなくて済むように、さらには自分の都合で、急に私を一人で残さないように、と配慮しての発言だろう。

そんな天使ににっこりと微笑まれては、廣太郎も力が抜けるらしく、私には見せない優しい笑みを、莉子に返している。

「わかった。気をつけて行け」

うん、と頷く莉子も、なんだか甘ったるい笑顔になっていて、恋人同士ってやっぱりこうなんだよなあ、と思う。

何カ月も顔すら合わせないまま、おかしな様子の妹と、その恋人を引き合いに出して考えている自分が嫌だけれど。


「由澄季って飯作れるんだな」

「む」

おいしいかどうか以前に、作れるかどうかすら疑われていたらしい。

「いや、うめえよ、マジで」

廣太郎が証明するかのように、鍋から具を掬っておかわりしている。少し秋めいて肌寒い今日は、キムチ鍋にしたから、おいしいとしたってキムチのおかげではあるんだけれど。

「莉子が辛いもの好きって、意外だね」

「お前が手際よく料理するのと同じくらいな」

「そんなにかよ」

くだらない話をしていたら、閉めたばかりの玄関の鍵ががちゃりと勝手に開いた。

あ、まずい。

反射的にそう思った。

案の定、ドアから入って来た瑞樹は、リビングで振り返った私の方ではなく、廣太郎の方に視線を縫いつけたまま固まってしまっている。

このふたり相性が悪かったんだった。というよりも、瑞樹が一方的に廣太郎を毛嫌いしてる気がするんだけど、とにかく同じ空間にふたりを置いておくとろくなことにならない気がする。

瑞樹だけでなく、廣太郎まで押し黙ったままだから、仕方なく私は口を開いた。


「一緒に食べる?」


「いやだ」

即答して、ようやく靴を脱いで上がってくる瑞樹。

「お腹すいてないの?」

夕飯時なのに。もっと早く、バイトの前に家に寄るときにだって、瑞樹は何かしら食べて行くのに。ひょっとして体調でも悪いんだろうか。

私は驚きながらも、瑞樹がじっと睨むような目で廣太郎を見てるから、それ以上口を利くのはやめた。

「もうちょっと食ったら帰るってば」

くすりと笑って、廣太郎がそう言った。緊張感ないな、こいつ。

「今帰れよ」

むすっとして瑞樹がそう言い返す。なんでそうつっかかるのかな。

「うまいから、まだ食いたい」

「うぜえ」

廣太郎の言動のどこが「うぜえ」のか、私には全く理解ができない。「おいしいからまだ食べる」って普通じゃないかと思う。

それに、瑞樹がそんな言葉を使うのを、初めて聞いた気がする。

無意識のうちに廣太郎の器に、煮えた野菜や肉を入れていたら、急に手首をつかまれて、あやうく器を落としそうになった。


「入れ過ぎ」

瑞樹が不機嫌な目で、今度は私の方を睨んでいるからびっくりする。

「あ、そう?」

そんなに山盛り入れてもいないと思うけど、瑞樹がまだ手首を離さなかったから、それ以上入れるのはやめて、廣太郎の前に器を返した。

「どーも」と言うなり、廣太郎はかきこむようにして、それを平らげた。

そのとき、廣太郎の電話がメールの着信を知らせ、私も莉子が親友のみいちゃんとやらに会えたのだと気がついた。

ほっとして廣太郎を見ると、彼も安心したような笑みを浮かべていた。

「ごちそーさん。帰るわ」

「うん」

「じゃ、また。学校でな」

「うん」

廣太郎を送り出して、鍵を閉めた。振り返ると、私の分だったはずの器の中身を、瑞樹がすっかり食べてしまっていてびっくりした。


「急にお腹が空いたの?」

鍋用の綺麗な器を出して、ごはんもよそって一緒に持っていくけど、瑞樹はごはん茶碗だけずりっと自分の方に引き寄せただけだ。

「あいつ、ここに前も来たけど、よく来るの?」

私の答えには返事もない。

「廣太郎?あんまり来ないよ」

「たまには来るんだ」

「うん」

「一人のときに男を部屋に上げるなって言っただろ」

「うん。言ったね」

「しかも、男に手料理食わせるとかあり得ないし」

手料理って言うほどのものかなって思う。でもそれよりも、瑞樹が「男」って連呼することが気になって。

「でも、廣太郎は男に見えない」

「女に見えるのか?」

「女にも見えないよ。親友に見える」

わたしが真面目にそう答えると、瑞樹ははあ、とため息をついて、ようやくきつい眼差しを緩めた。

「親友ったって、仲良過ぎじゃねえ?なんか、通じ合ってるみたいに微笑んだりしてさ」

「微笑む?廣太郎が私に?気持ち悪いんだけど」

思わずそう言うと、瑞樹がわずかに笑ったから、私も少しほっとする。

「あいつが帰るって言った時」

瑞樹にそう言われて、合点がいった。
「ああ、莉子からメールが届いたときだ」

私がそう言うと、瑞樹が首をかしげたから、莉子が友達に会いに駅に向かったことを教えた。

「さっきまで、その女もここにいたんだな」

そう呟くと、瑞樹は空になった器を出して、「おかわり」と言った。今度こそ、いつも通りの瑞樹になったらしい。



今日のバイトは朝から夕方までだったらしい瑞樹が、リビングでテレビを見てる間に、お風呂に入ってしまう。

実家にいるころから、眠る前に瑞樹に頭を撫でてもらうのが、至福の時だった。

寝付きの悪い私がするりと夢の国に入ることができるせいじゃなくて、瑞樹が優しく触れてくれることが、単純に幸せだからだと気がついたのは、いつのことだっただろう。


その幸福感が、ここ数週間の内に、確かな緊張を伴うようになった。


…瑞樹にキスされるんじゃないかと思って。
どちらかと言えば、全く覚えてないことの方が多くて、もしかしたら毎回はされてないのかもしれないのだけれど。

ときどき、わずかに残された意識の中に、瑞樹の唇の感触を認めることがある。


初めての時のような激しい動揺はないものの、喜びや戸惑いや切なさがないまぜになった気持ちで胸が浸されることには変わりがない。

朝目が覚めたときにまで引きずられるその気持ちは、堂々巡りを繰り返した後、結局は「どんな理由でもいいだろ?好きな男がキスしてくれたんなら」という廣太郎の言葉で消える。



……のだ、けれ、ど。

これは、さすがにキツイ。何がってことを、上手く説明できないけど、何かと辛い。

いくらなんでも、寝付けない。寝付けるはずがない。


ベッドで布団にくるまった私の頭を、撫でていた温かな手が離れ、柔らかい唇が頬に触れたことには、かろうじて気がついた、という程度だった。
まだ私の意識は沈んでいく途中で、そのまま深い眠りに落ちて行くものだと思っていた。

唇に同じ感覚を覚えたときも、まだ。

だけど、それが何度も繰り返されるうちに、状況は変わる。


心拍数が急激に上がり、心音も体内をこだまするように大きくなっていく。顔だけじゃなくて全身熱くなってきて、なんだか息切れまでしてきた。

体の変化も目まぐるしかったけれど、心も忙しいものだった。


何を考えてるんだ、瑞樹は!

戸惑いが動揺になって、恥ずかしさが苛立ちになって、最終的には心配になって来た。


そして、おそらくはその原因になっているのであろう、わが妹を思う。

どうして菜津希は、瑞樹がこんな状態になるまで放っておいたんだろう、と。




「ねえ、私、発情してるみたい」

「は?」

ゆらりと寝室から出るなり、そう言った私の声は、まるで自分のものじゃないみたいに現実感がない。靴を履きかけていた瑞樹は目を丸くしている。

「だから、いつかの先輩みたいに、発情したらしい」

「突然…だな?」

長年の付き合いで、私の奇行にもあまり驚かない瑞樹が、びっくりしてるのは、やはり珍しい。

「突然じゃないよ、瑞樹のせい」

「へ?」

「しつこくキスするから」

「……ええっ!?」

さらに驚愕の表情を浮かべて固まっている瑞樹を見ても、頭の中は不思議と静かなものだ。

「何?」

「寝、てただろ、お前」

かろうじて言葉を絞り出す瑞樹にも、微笑ましい気持ちになるから我ながら重症だと思う。

「あんなにちゅうちゅうしたら、私だって目が覚めるよ」

「…もう、嫌だ、俺、自分が」

瑞樹が片手で髪をぐしゃぐしゃ掻きむしっている。

「ねえ、今日はなんであんなにしつこくしたの?」

「今日『は』って!?それに、『しつこい』って表現やめてくれない?」

「だって、なんかべとべとしてた」

「…恥ずかしいから言うなって」

手の甲で口元を覆う瑞樹の顔は、確かにちょっと赤いかもしれない。薄暗くてはっきりとはわからないけれど。

「本当のことじゃん」

知らないふりをしていようと思っていたけれど、こうして話してしまえば、思いのほかすっきりしてきた。だって、本当のことだから。


「……ごめん」


その一言で、瑞樹の様子を面白く感じる気持ちも、爽快感も、すうっと消え失せた。
謝るって、どういうことなんだろう。やっぱり、「菜津希の身代わりにしてごめん」ってことかな。

前に、抱き寄せられた時にも、頬にキスされた時にも、瑞樹は謝った。

それを思い出すと、酸っぱい味が喉の奥からこみ上げてくるような気がした。


「悪いと思うなら、手伝って」

「何を?」

きょとんとして赤い顔のままこちらを見る、その表情すら、愛しい。

「繁殖行為」

「はんしょ…、何?」

「繁殖行為、言い換えると、交尾?」

「はっ!?」

いよいよびっくりした、って顔になって、後ずさりする瑞樹には、やっぱり思わず笑ってしまった。

「もちろん、練習だけど。私とできる?」

「それは」

そこまで言って、瑞樹が言い澱む。

「難しい?あんたから見たら、私たち姉妹はよく似てるんでしょう?私を奈津希だと思えばできる?」

畳みかけるように言葉が出てくる。


「いや、お前は由澄季だろ。…できるよ」

それに乗せられるかのように答えて、真っ直ぐ私へ視線を向ける瑞樹。

「す」
「す?」

「素直になりなさい」

「はあ?」

「素直に私を奈津希の身代わりだと思えばいい」

あっぶない、好きって言いかけた!

「身代わりになんかできるはずねーだろ」

ぽそりと呟く瑞樹に、わかってる、と胸の中で答える。私と奈津希とでは、大違いだ。

「奈津希って呼んでいいよ」

「はあ?何をバカなこと言って」

「いいから、呼びなさい」


「…奈津希?」

渋々って感じを丸出しにして、瑞樹が言うと、一瞬、息が止まるくらいずきんと胸が痛んだ。

この人は、妹のものだ。それを、私は忘れてはいけない。

――もう一度、さっきの。

どくん、どくん、と心臓が必死で血を送りだしているけど。構っていられない。

――もう一度、さっきの、キスを。

そう思いながら、瑞樹の服の襟元を掴んで力いっぱい引っ張ってみる。

「わっ」

バランスを崩した瑞樹が、慌てて足を踏ん張った。

「ふふっ」
瑞樹のびっくり顔が、望み通り私の目のすぐ上に来たから、思わず笑ってしまった。すると、つられたように、瑞樹が笑った。


好きだ。この顔が。

好きだ。いつでも、私が笑うときには一緒に笑ってくれた、瑞樹が。


「いいよ、さっきのキスの続きをしても」

そう囁くと、今度ははっきりとわかるくらい、瑞樹の顔が一気に真っ赤になった。

でも伏せた目は、なんとなく色気を漂わせている。へえ、こんな顔もするんだ、って思うだけで、胸の奥がきゅんと痺れる。

「しつこくてもいいよ。ちゃんと菜津希には内緒にしてあげる」

菜津希に何か隠し事をするということ、さらにはそれが、瑞樹に関係があることだなんて、これまでの私にはあり得ないことだ。

結局、私の中では、菜津希に対する怒りがくすぶったままなのだと思う。

いつか、好きな人が兄弟と付き合っていたらどうするかと尋ねたときに、廣太郎が答えた「躊躇なく奪う」という言葉が、頭の中を掠めた。

そうじゃない。奪うつもりはないけれど、とにかく、菜津希の発言が、行動が、許せない。

「お前、なんか変だな」

まだ赤みの引かない顔を、わずかに心配そうなものに変えながら、瑞樹がそう言った。

「いつもいつも、変人って言われてますから」

その意図に気がつかないふりをしてそう返すと、瑞樹は困ったように首をかしげた。

「いつもと変なところが違うんだけどな」

大きな手が、そっと私の頬に触れた。ずっきん、と胸が弾んだ。

心配なんて、して欲しくない。私の様子がおかしいことなんか、気がついて欲しくない。

「発情してるからね、瑞樹のせいで」

そう言って、もう一度瑞樹のTシャツをぐいっと引っ張ると、ようやく届いた。その瑞樹の唇を、自分の唇で受け止めて、その感触をしっかり味わう。

うとうとしていた時とは違って、鮮明な記憶を、しっかりと脳に刻みつけながら。

「…なんか、さっきとは別人みたいにキスがエロいんだけど」

わずかに唇を離して瑞樹がため息をついた。

「私は瑞樹の真似しただけ。瑞樹は誰の真似してるの?」

私がそう言うと、瑞樹が黙り込んだ。

誰の、なんてわざわざ聞かなくてもわかっている。菜津希に決まってる。

瑞樹が付き合っているのは菜津希で、その前にも後にも彼女はいない。私や菜津希に知られないように、上手く浮気ができる性格も持ち合わせていない。

「どうしてそういう意地悪が言えるのかな」

すねた顔になって、少し尖った瑞樹の唇に、もう一度吸いついた。


まさか、こんな日が来るとは思わなかった。お互いの意識がはっきりしているのに、瑞樹とこうしてキスをする日。

瑞樹が菜津希の浮気に傷ついていなければ、私がそれについて怒っていなければ、こんな日は永遠に来なかっただろうに。

結局、こんなに近い距離にいながらも私たちは、お互いに菜津希のことを考えながら、こうして唇を重ねているのかもしれない。

でも、それでいい。むしろ、そうあるべきだ。



「由澄季、ほんとにいい?」

切羽つまったみたいな声を出して、瑞樹が顔を近づけるから、一旦両腕で押し返した。いいんだけど。だけど。

「奈津希って呼んでね」

私も、瑞樹も、菜津希に対する罪悪感や怒りや寂しさを、忘れてはならないと思う。

「…お前、どうかしてるよ」

私なら、うんと前からどうかしてる。妹の彼氏が好きだなんて。

瑞樹の言葉に返事すらしない私に、痺れを切らしたらしい。

「あー、もう、……菜津希」

瑞樹が暗い目をしてそう言うけれど、その表情は気にしないことにして、彼の襟首を掴んで引っ張った。

もちろん、今しがた覚えたばかりの、キスを、もっともっと深くするために。ほんの数センチ手前で止まった瑞樹の唇は、こう動く。

「お前こそ、俺とできるの?俺でいいのか?」

私は、それには答えられずに、少し笑った。
瑞樹しか嫌だ、と心の中でだけ、呟きながら。

律儀に答えを待っているらしい瑞樹が愛しくて、その口を塞いでやった。もちろん、自分の口で。

私がまだ瑞樹を引っ張るから、キスを繰り返しながら、瑞樹は履きかけだった片方の靴も脱ぎ捨てた。


全身で、全霊で、瑞樹を感じる。

幼いころ、ごく当たり前につないでいたはずの手は、知らない男の人みたいに大きくて。
初めて埋めた胸は、堅くて広くて熱い。

唇が触れたところから、自分が溶けてしまいそう。こぼれるため息に、胸が痺れてしまいそう。

夢ではないかという疑いや、不道徳だという非難、引き返すという選択肢、いろんなものが沸き起こっては消えていく。

それは、ごちゃごちゃに混ぜ合わされて、蕩けていく。

しまいには、切なさに似た余韻だけを残して、頭の中も心の中も、全部全部、瑞樹で埋め尽くされたのだった。




「ゆ、う。初めてなのか?」

ち、バレたか。内心舌打ちする。

ベッドの上で、熱のうねりに飲み込まれるみたいに、瑞樹に没頭していた意識が、呼び戻された。

こんなときに甘い声でゆうって呼ぶな、と思う。知らん顔したい場面なのに、できないじゃないか。

「な・つ・き。もし初めてだとしたら、何」

「何って、大事にした方が」

「十分大事にしたと思うけど?20年も」

「いや、歳の問題じゃなくて」

「ごちゃごちゃうるさい」

「え」

「何、処女には性欲がないと思ってたの?」

「は?」

「それは瑞樹の思い込み。諦めて、さっさと入れなさい」

「はあ?」
「早くして」

呆気に取られていた瑞樹だったけれど、いよいよ呆れた、と言う様子で、深いため息をひとつ、こぼした。


「かなり痛いんだろ?顔には出てないけど、この指、爪が折れてる。痛いなら、やめてやるから無理するな」

そう言って、右手の中指をそうっと大切そうに撫でられたら。

駄目だ、私やっぱり、猛烈に好きだ、瑞樹のことが。

それを、強く強く実感した。私のことをよく理解して、その上でここまで優しく大切に扱ってくれるのは、私には瑞樹だけ。

「今更やめたら、許さない」

「由澄季」

「な・つ・き」

「……とにかく、これ以上やると、膜が…うわ!」

まだ何か言い募りそうな瑞樹に痺れを切らし、彼の腰を両手で思い切り引き寄せた。なのに、力では全然敵わないらしく、瑞樹の体はほとんど動かなかった。


それならば、力じゃなくて、言葉でねじ伏せるだけだ。

「できるって言ったじゃない。瑞樹は嘘つきなの?嫌ならいい、他の誰かに頼むから」

わずかに奥に進むだけでも感じる強い痛みを味わいながら、瑞樹の嫌がりそうな言葉を選んで重ねると、案の定、ぎらりと目の力が戻ってくる。

単純でかわいいヤツ。

追い打ちをかけてやる。

「嘘つきじゃないなら、早くして。私、もう待てない」

だって、ひりひりするんだから。身体中が熱くて、胸の底が焼かれるみたいにちりちりひりひりする。

やめてやるから無理するなっていう瑞樹の言葉は、嬉しい反面、ひどくショックだった。

ここでやめるなんて冗談じゃないって、瑞樹はそれで平気なのかって、本気で思った。

だから、私は、自分の瑞樹への気持ちを、強く強く、再認識したわけだ。

十分、待った。こうなることを期待したことなんかなかったけど、こうなってみると、ひどく長い時間、瑞樹を待っていたような気がして。

最後のとどめを。


「できないんだね。じゃあ廣太郎に頼んでみ、…ん!」

最終通告を全部まで言うことはできなかった。


瑞樹が、自分の唇で私の唇を塞いだと同時に、腰を深く沈めたから。

体験したことのない痛みは、私の体の隅々まで響くようだ。

それは予想以上の痛さで、私が思わず瑞樹の唇を噛んだのに、彼は怒りもしないで、温かい手で私の頭を撫でた。私を寝付かせるときと同じように。

その仕草だけで、不思議と痛みが和らいだ気がして、私は歯を立てるのをやめた。


「ゆう」

呼び名が違うと、抗議しようとするのに、わずかにゆがんだ視界の中の瑞樹の表情があまりに優しくて、できない。

「大丈夫だよ」

何も心配なんてしてない、不安も恐怖もないって言おうとしたら、ゆがんでいた視界から、ぽたりと何かが落ちて行った。

「ゆう」

それを拭った手を、背中に回して、瑞樹は再び目を閉じた。唇を合わせると、柔らかく舌を絡めてくるから、今度は下腹部がきゅんとする。それは痛みとは違う刺激で、次第にそのきゅんきゅんした感じの方が強くなってくる。


瑞樹。瑞樹。瑞樹。

声にならないため息のような音を口から零しながら、頭の中で何度も瑞樹を呼んでいた。

ずっと好きだった瑞樹と、こんなふうに裸で抱き合ってることが、色んな間違いが重なった結果だとわかっているから、きちんと言葉にして彼を呼ぶことが、できなかった。



奈津希の恋愛依存症とも思える性癖を、初めて真面目に理解した。

好きな男に触れる幸せを、抱かれる快さを、味わったなら、きっと病みつきになる。
太古から、ヒトが死に絶えることなく子孫を残していることが、全く不思議ではなくなった。

女性がそれぞれに、この陶酔を感じるプログラムを持っているのなら。

私は、ますます、生物がいとおしくなった。



自分の腕の中で眠る瑞樹に気がついたとき、息が止まるかと思った。


自分の妄想によるすごい展開の夢を見たなぁと赤面しながら目覚めたのに、裸の肩が見えたのだった。

次第に現実を認識できるようになったら、この時間が惜しくて愛しくて。

この距離で、瑞樹の寝顔を見つめることが許されるのはあと何分のことだろう、そう思うと、身じろぎもできなくなった。

自分も素っ裸だってことはわかっているし、早く服を着て何事もなかったかのような顔をしようかとも考えているのだけど、ちっとも実行に移せないのだ。

だって、私の左腕は、完全に瑞樹の首の下にしっかり敷かれているから。この腕を引き抜けば、瑞樹が目を覚ますかもしれない。

目を覚ました瑞樹はきっとまた、「ごめん」って謝って、ひそかに私を傷つけた後で、菜津希のところへ戻るだろうから。


せめて、彼が眠る間だけ。

そう思っていた時間は、無残にも断ち切られる。無機質な電話の着信音によって。

右腕を伸ばして見た携帯電話のディスプレイに、思考回路はフリーズする。


着信 早坂菜津希


本気で、菜津希は魔女なんじゃないかって思いが頭をよぎった一瞬だった。

「何」

時間を確認しながら、電話に出る。まだ22時だ。いや、私にとっては深夜だけど、世間一般の人たちにとっては、それほど遅い時間でもないだろう。

「瑞樹が電話に出ない」

前置きのない私の言葉に、一切驚かずに菜津希が答えるから、やっぱり私の妹だな、と思う。

「ああ、家でうたた寝してるから、起こしてかけさせる」

私がそう言って、通話終了ボタンを押す直前、「お姉ちゃん」と呼ぶ菜津希の声に、どくりと心臓が疼いた。


「まだ起きてたの?」


はっと息をのんでしまって、すぐには答えられなかった。

「なんか、すぐ電話に出た気がしたけど」

…鋭い。

「寝てたけど。ちょうど目が覚めたところだった」

嘘は、一言も言ってないはずだ。

「ふうん」

菜津希はそう言うと、唐突に電話を切ったのだった。



びくり、びくり、怯えたみたいに心臓が鳴っている。


「菜津希だった?」

腕の中で、間延びした声がして、拍子抜けする。

「う、ん」

いつ目覚めて、どこから会話を聞いていたんだろう。とにかく、全然動揺していないらしい瑞樹に、却ってわたしは落ち着かない気持ちになる。
甘えるように私の首元に擦り寄ってくる瑞樹の頭を、思わず大切に抱いてしまってから、慌てて腕を解いた。

「早く電話してやって」

菜津希は、こうしている間にも、イライラしながら瑞樹からの電話を待っているはずだ。

「んー」

なのに緊張感のない様子で、瑞樹はぴったりと首にくっついた。皮膚に当たる感触で、彼の顔の鼻や唇が当たるのがわかって、今度は違う理由で胸がドキドキしてくる。

こんな状況の中で、彼女から電話がかかって来てたって言うのに、この呑気さは、どうなんだろう。一体何考えてるんだろう。いや、瑞樹の場合、何も考えてないのかもしれない…。


「ね、由澄季、も一回」


「は?」

何を言っているのかさっぱりわからないけど、早く電話をして欲しい。気が気じゃない。

「もう一回ヤりたい」

そう囁いて、瑞樹がぺろりと耳を舐めたから、びくりと胸が跳ねた。

彼の唇が、舌が、触れたところから、とろりととろけそうな感覚があるのを、必死で打ち消す。

「ヤらない。早く電話」

ゆっくりと私の体ごと転がって、瑞樹は私を上から見下ろした。目覚めたところのとろんとした目が、なんだか危なげで。

「お願い」

かわいい言葉とは裏腹に、その表情は大人の男の色気を孕んでいて。


「ごめん」


気がついたら、謝っていた。

「私、どうかしてた」

そう言い終わると同時に、机の上で瑞樹の携帯がピカピカ光り始めた。私はもちろん、瑞樹も無視できないくらい眩しく。

菜津希に対する激しい怒りは、なりを潜めて、強い後悔の念が押し寄せてくる。

いくら瑞樹が不安定な状態で、見ていられなかったからと言って、こんなふうになってよかったはずがない。

私は、菜津希との会話の中で、意図的に今の状態を隠した自分に気が付いている。

一度も嘘はつかなかった。ただし、真実も打ち明けなかった。


それは、私の中にやましい気持ちがあるからに違いないのだ。

瑞樹が電話に出なかったのは、私の腕の中で眠っていたから。私がすぐに菜津希からの電話に出たのは、菜津希に疑われまいと思ったせい。

そんな風に答えたなら、菜津希は何と言っただろう。


「んー。……うん」

とろんとした目のままで、菜津希と電話する瑞樹を見ていたら、ますます頭の中は冷えてくる。

瑞樹の答えが「ん」の音ばかりで形成されていて、ふたりの会話の内容は全く分からない。

だけど、昼間の廣太郎と莉子の様子とはずいぶん違っていて、彼氏という存在を持ったことのない私には、それがあくまでそれぞれの個性によるものなのか、菜津希の浮気に伴う深い亀裂を生じた結果によるものなのかは判断のしようもなかった。

するりとベッドを抜け出して、瑞樹の体温を失ったら、秋の夜の空気は皮膚をさっと粟立たせる。

んー、と迷うような眠いような、曖昧な響きの瑞樹の声を背中に聞きながら、部屋を抜けた。

浴室でシャワーを浴びると、さっきまで身に纏っていた、瑞樹の感触や温かみが全て流れて行くような感覚に襲われる。

それは悲しくて切なくて、でもどこかほっとした。


あれはすべて夢だった。


私はそう信じることに決めて、ようやくお湯を止めた。
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