哀しき血脈~紅い菊の伝説3~

別離

 信と絵美は低いテーブルで向かい合って互いの顔を描いている。絵美の絵は年齢相応の拙いものであったが、信のそれは絵を専門に勉強したものに匹敵するほど巧みだった。信はそれが自分に対して興味を持たれることは知っていたのだが、見かけ上の年齢相応の描き方をあえてしなかった。
 この久しぶりに出来た友人といつまで一緒にいられるかわからない。それが一年であっても、二年であっても、彼にとっては刹那的な時間に過ぎないのだから、ありのままを残しておきたい。そう思ったからだった。
 そして、その絵にはあえて色はつけず、モノクロームのデッサンにとどめようと信は思った。色をつけてしまうと絵美の持つ雰囲気がかえってあせてしまうように思えた。彼女の持つ明るい部分と影の差す部分をしっかりと捉えておこうと信は筆を進めた。
「少し休もうか?」
 不意に筆を置くと絵美が言った。
「そうだね」
 信が応えた。 
 二人がこの作業を始めてすでに一時間が経過していた。信の集中力はまだ続けられるのだが、絵美のそれが限界に近いことを信は察していた。
 絵美は信の後ろに回り込むと彼の描いた絵を見た。
「うわぁ、信君上手だね」
 絵美が感嘆の声をあげる。鉛筆で描かれたデッサンは絵美の特徴をよく捉えていた。
「小さい頃から習っていたからね」
 信は照れながら応え、絵美の絵を取り上げた。
「絵美ちゃんのだってよく描けているよ」
 絵美は慌ててそれを取り戻そうとする。その目は笑っている。何度かじゃれ合っているうちに信が倒れ、その上に絵美が被さる。
 二人の顔が接近する。信の、そして絵美の心臓がドクン、ドクンと高鳴る。二人は慌てて身体を離す。顔がほてり、二人は暫く互いの顔を見ることが出来なかった。
「ごめん、ね」
 信が小さな声で謝る。
「ううん、私こそ…」
 絵美が恥ずかしそうに応える。
 二人は視線を合わせあい、再び笑った。
 こんな事は久しぶりだった。
 あれは五十年ほど前、信がまだ前の守護者とともにいた頃のこと、十五歳の春海と出会ったときのこと…、だった。
 やはり春海とこんな風に笑い会ったことがあった。
 だが、信のその思い出はただ懐かしいだけではなく、とても苦いものでもあった。
 そのために春海は自分の人生を捨てることになってしまったからだ。
 春海は信の守護者の道を歩むことになってしまったのだ。
 このまま絵美の傍にいたらまた同じ事が起きるかもしれない。
 絵美を束縛してしまうかもしれないな…。
 信はそう思った。
「どうしたの?」
 絵美が素直な微笑みを向けてくる。
 彼女はまだ何も知らない。もし自分の正体を知ったとき、彼女はそれでも笑顔を向けてくれるのだろうか?
 信は冷たいものが目から頬に伝わるのを感じた。
 そのとき、階下でチャイムの音が鳴った。そして、暫くしてドアが開く音が続き、悲鳴が響いた。
 絵美の母の声だった。
 それを聞いて信は絵美を庇ってベランダに通じるサッシに触れる場所に移動した。
 何かが急いで階段を上がる音が聞こえ、二人がいる部屋のドアが勢いよく開いた。
 その向こうに血走った目をした若い男が立っていた。相馬だった。
 相馬は薄笑いを浮かべて二人に近づいてきた。
「子供、子供だぁ…」
 信の背中を絵美がぎゅっと抱きしめる。
「おじさん、誰?」
 努めて冷静な声で信が問いかける。同時に音がしないようにゆっくりとサッシを開けていく。無理に笑顔を取り繕って見せたが相馬にはそれが通じない様子だった。彼の正常な意識は既にここには無い様子だった。
 こいつは人ではないな…、信はそう思った。早く絵美をこいつから遠ざけなければならない。信は絵美にささやく。
「僕にしっかり捕まっていて、ベランダから飛び降りるから。そうしたら君は急いで交番に行って助けを呼んできて」
「でも、信君は?」
「僕なら大丈夫。ああいうのにはなれているから」
 絵美は黙って頷いた。
 そうしている間にも相馬は二人ににじり寄っていく…。
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