ノータイトルストーリー
ふと、妻の顔を見るとさっきまで悪戯な笑顔でいたのに、少し静観にも見える真顔になっていた。

たまにだが、妻の言葉や表情はふわっと私を包み込む。

「私はとても幸せものだ」とは口には、しなかった。

私が言葉にすると詩的ではなく、安っぽくなってしまうからだ。

そして、恥ずかしげもなく、真顔でそんな事を言える妻を改めて惚れ直した。

ビールを飲んで酔っていたせいか、顔が火照って熱く感じた。

たばこもとっくに吸い終わり、照れ隠しに「な~にを言ってるんだ。少し冷えてきたから中に入るぞ?」とギュッと妻の手を引き、灰皿と吸い殻を残し、ベランダをあとにした。


悪戯坊主だった僕らも中学校に上がると、山下の誘いで部活に入った。

柄にもなく『写真部』にだ、もしかしたらヌード写真を撮らせて貰えるかも知れないと言うと思春期ならではの不純な動機からである。

実際、入ってみるとそんな期待は見事に打ち砕かれ、当然ながら所属はしているが幽霊部員となっていた。

それまでは、度々2人でお婆さんと『彼』の家に2人で遊びに行った。

学校での悪戯の話や勉強なんて役に立つのかなど下らない話をしたり、例の縁側で『彼』とゆっくりと時間を過ごしたりとしていた。

しかし、中学校に上がってからというもの通学路が変わり、中々行けなくなっていた。

ある夏の日、山下を誘って、久しぶりに遊びに行くことにした。

家に着くと見慣れた生け垣の前で、お婆さんが打ち水をしていた。

「こんにちは!お久しぶりです!」というと、少し暗い顔にパァと明かりが指したようだった。

僕は真っ先にあの庭に向かった、そこにいるはずのボサボサの『彼』いない。

ポツンと小屋と鎖と杭だけが、あるだけだった。

「まさか…」と頭をよぎった、お婆さんに「彼は?」と聞くとこっちだよよ。と案内されホッとした。

案内された先は、亡くなったお爺さんの仏壇の前だった…

「えっ?」僕は状況を理解出来なかった、理解したくなかったと言うべきか…

僕は、お婆さんに「つまらない冗談はやめてくれよ!全然笑えないって!」と真実を受け止められずに、怒号を上げた。

すると山下は「やめろよ!止めるんだ…」と僕の腕を力一杯引っ張った!もげてしまうのではないかと思うくらいの力でだ!

いつもはヘラヘラとした悪戯坊主だが、どこか飄々としていて、普段、感情的な行動をすることのない山下がだ。

振り返ると、山下の瞳は真っ赤になり、涙が流れている。ふと、気付くと僕もお婆さんの瞳からも涙が流れていた。

聞けば、2ヵ月位前に朝から、いつものように動かない『彼』であったが、ご飯を置いても反応が無く、眠ったまま、冷たくなっていたそうだ。

白い小さな箱の中に大好きだった…いや、大好きな『彼』は今は入っている。

しかし、きっと『彼』の大好きだったお爺さんと一緒にあの陽のあたる縁側で欠伸をしながら空を眺めているのかも知れない。

それがただ僕らの目には見えないだけで…

きっと、光の屈折とかと、同じ様に角度が変わると見えなくなってしまうだけで、実際はそこにあるように。

または、もしかすると、白い小さな箱は別の世界に繋がっていて、お爺さんと『彼』は幸せに暮らしているかもしれない。

そんな風に思えた。思いたかった。

「無知とは、実はとても幸福なことなのだ…」とまた訳の分からないことを感じた。

だから、箱の中は見ないことにした。

山下は、僕に「お前ウサギみたいな目をしてるぞ?」と鼻を垂らしながら言い、僕は「お前だって人のこと言えるのかよ?」と言い合い笑っている。

それを見て、気付けば、連られて僕もお婆さんも笑っている。

「はぁぁ…久しぶりに笑わせてもらったわ…」と息を切らせて鼻を啜った。

涙を拭くとお婆さんは「ちょっと待ってなさい」と言った。

そして、いつの日にか、僕と山下と忍び込み『彼』とお婆さんと出会った日と同じように桃の缶詰めを持って来た。

それをあの日のように僕らはそれを食べた。

鼻水と涙と桃の甘い味が口の中で複雑に混ざると、ポタポタとまた涙が止まらなくなった。

「おぉい、もぅ泣くなよぉ」と困り顔で山下は言う。

「良いのよ…ありがとうね…ありがとう…」とお婆さんは言った。

それから三人はあの良く陽のあたる縁側に座り、夏の突き抜けるような青い空と綿菓子みたいな白い雲を暫く黙って見上げていた。

あの頃はまだ足がプランプランとしていたが今はしっかりと地面に足が届き、踏みしめていた。

その後、お婆さんは「また今度も玄関から遊びにおいで、まぁたまには生け垣からでも良いけどね?」と言う。

二人は「うんっ」とはっきりと力強く答えた。

お婆さんの家を後にすると、二人は言葉少なに黙々と歩いていた。

いつもの分かれ道で、山下が「また明日」というと僕も「また明日な」と言葉を交わした。

二人の間にそれで以上言葉は必要なかった。

辺りをあの日と同じく、夕陽がオレンジ色に染め上げ、二人の影を長く引き伸ばしていた。


ベランダから家の中に戻ると丁度「ただいまぁ」と娘が帰ってきた。

「恵美ぃ、ご飯は?」

「食べてなぁい」

「じゃあ今、支度するからね」とパタパタと台所へ私はお決まりのソファーへ座ると、娘はパタパタと歩き寄ってきた。

そして、私の耳元で「で?いい年したお二人さんはベランダで何してたの?」とニヤニヤしながら、小声で呟いた。

「ボッ」と耳が熱くなった。

「たばこを吸ってただけだ!」というと「ふぅん…そぉですかぁ…」と意味深にいうと、鼻歌混じりにパタパタと妻のもとへ手伝いに行った。

ほんとに妻と娘ははよく似てる良くも悪くも

背中の方で笑い声がする度に妻がさっきの話したんじゃないかとヒヤヒヤした。

さぁ、風呂に入って今夜は眠ろう、今度こそ朝まで…


会議とお説教のおかげで、会社を出るのが少し遅れた。

「くそ~あのヘビ課長め~」と内心思ったが、会議に遅れたのは、事実だし、まぁ仕方がない…。

今日は例の『彼女』とデートの約束をしていた。

あまりに嬉しくてつい「デートだ♪デート♪」などと口ずさんでしまった。

会社を出るときに藤井さんには、聞かれてしまっただろうな…ダセーな俺…

「きっと不謹慎なやつだ」と明日にでも言われそうだな…などと考えながらも足取りは軽かった。

午後からの雨も上がり、まだ、空がオレンジがかっていた。

待ち合わせ場所には少し遅れて到着した。

時間にして約20分程度だ。

しかし、デート待ち合わせた場所には『彼女』はいなかった。

待ち合わせ場所は最寄りの駅の西口付近で丁度、駅前で同じようなスーツに身を包んだ、企業戦士達が大勢せかせかと歩いている。

むしろ中には「競歩かっ!?」とツッコミを入れたくなる程、速い強者の戦士もいる…

「俺でも、走ったら勝てるかどうか…(笑)」などと頭の中で余計な事を考えながらも、人混みの中を目を凝らして紛れていないか『彼女』を探す。

しかしながら、見つけることが出来なかった。

流石にそこで現れましたるは、文明の利器を上着のポケットから取り出す。

しかし、それをもってしても繋がらない…「怒って帰ってしまったのか?」などと頭をよぎった。

しかし、俺は今まで遅れたことなどなかった。

むしろ彼女の方が遅れる事が多いくらいだった。

けれど、そういった場合には事前にメールをくれてたり、電話もつながった。

今回は、たまたまか?などと楽観的に考えて、待つことにした。

メールは毎回するのも面倒だし、電話にしても電車に乗ってて出られないなんてことも有り得る。

もし、急な仕事の関係でなら、一区切りつけば、連絡がくるだろう。と鷹を括ってそこで待つ事にした。

しばらくして、まぁ時間にして約30分位経つが一向に連絡はない。

「う~ん、ホントは怒ってしまったのかな…?」と心配になり始めたので…

「待ち合わせの場所で待ってるから、遅れた事怒って、着たくないならメールでも良いから連絡してくれ。もし、そうじゃなくて仕事中とかなら、ごめん電話して」とメールを送信とっ…

「こりゃいずれにしても長期戦になるな…藤井先輩じゃないけど、たまには自分で、たばこでも買ってみるか」

たばこは良い。単純に時間を持て余した時には時間を忘れさせ、イライラした時には気持ちを落ち着かせてくれる。

何よりたばこを吸っている時の俺はカッコイい!…と自分では勝手に思い込んでる。

ポケットの中を探るとジャラジャラと小銭が沢山だ、自動販売機に向かい合い、お金を入れると「タスポをタッチして下さい」

「タスポ?なんじゃそりゃ?」ボタンを押しても自動販売機はその一点張りだ。

「くそー!このポンコツが!」と思い切り蹴飛ばすが…

流石に相手は金属製…カルシウムの上に自家製のタンパク質と化繊の靴下、それと安物の合成皮革で出来た靴をコーティングした足じゃかなうわけもなく、激痛が走る。

「あいたたたた…」とその場にうずくまり、そう言えば、前に未成年者喫煙防止の為に成人識別機能がついたなどと話しは聞いていたが、ここまで頑固とは…

最近は、貰いたばこが主流で浦島太郎の気持ちがよく分かった。

なんて不憫な太郎君…なんて不憫な勇二君…そんな具合に思えた。

足の激痛が収まるまでに頭を働かせた結果、コンビニに行こうと思いついた。

というより、半ば諦め楽な選択肢を見いだした。

痛みが引いて立ち上がろうとしたとき後ろから、声をかけら振り返ると。

「おじさん。あっいや、お兄さん、カード持ってないの?」

「あぁっ?うん、持ってねーんだよ~」

「そっかぁ、じゃあホントはいけないらしいけど、見るからに俺より若くは見えないし、貸してあげるよ。」

財布を「ピッ」とかざすと、「カタン」とたばこが落ちてきた。

始めは「なんて失礼な奴だ」と一瞬、思ったが「ちょっと面倒だけど作った方が楽だよ?」

「ホイッ」とたばこを投げられ、それを受け止めると「ありがとうな」と素直に言えた。

「タスポを…」

「はいはい、ピッとな」

「商品を…」

「ほいっと」

「カタン」

「ありがとうございました」

「どういたしまして」と『彼』は自販機と会話するようにセブンスターを実に手際良く手に入れた。

スーツ姿の少し無礼な変わった『彼』は大荷物を抱えている

出張か何かだろうなと察しはついた。

都会に住んでる自分よりおのぼりさんの方が先端を行っているのに少し笑えた。

その『彼』は屈託のない少し不細工な笑顔でニコッと笑ってその場をあとにしかけた。

『彼』はすると急に振り返り「そう言えば…」とゴソゴソとズボンのポケットを探り始め、ライターを取り出すと…

「お兄さん、ライターもないでしょ?これあげるよ」と言い、「ホイッ」と投げて寄越した。

そして、今度こそ、その場をじゃあと去って行った。

確かにライターは持っていなかったので非常に助かった。

いつの間にか、俺の中でも見知らぬ『彼』の株は一気に上昇し『見知らぬおのぼりさん』から『気の利く気さくな好青年』にまで上がっていた(笑)。

彼女からの連絡は以前となかったが、急いで待ち合わせ場所に戻って、買いたてのホヤホヤを開けて一服点ける。

くわえたばこで見上げると「ふぅぅ、今日は雨上がりで空は晴れてる明日は晴れるかな」などと、しみじみ思う。

一瞬ではあるが、さっきの好青年(笑)にも「おじさん」なんて呼ばれたもんなぁ。

まだ、30歳になったばかりなのに…
まぁ、あの頃からすりゃあ、しゃーないか…

気が付けば、もう11時を回っていた。
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