長靴をはいた侍女
 その日は、朝から曇り空。

 いまにも雨が降りそうで降り出さない、微妙な空模様だった。こんな天気だと、とある伯爵家では二人の男が窓の外を見上げてはため息をつく羽目になる。

 一人は若き独身の伯爵自身。

 もう一人は──伯爵家を取り仕切る執事頭のファウスだった。

「今日は……その、来るのか?」と、伯爵が焦れたような険しい表情でファウスに語りかける。

 対するファウスは「分かりかねます」と、執事として正しい言葉で答えなければならなかった。既に時間は昼をかなり過ぎている。たとえ雨が降り出したとしても、遅い時間であれば、「それ」が来ることはないだろう。

「あとニ時間ほどの間で降り出せば……来るか?」

「分かりかねます」

「一時間では、どうだ?」

「分かりかねます」

「分かりかねます以外の言葉で話せ、ファウス」

 実際問題、ファウスからすれば「分からない」以外の答えは返しようがなかった。たとえ雨が降り出して彼女が子爵家を出たとしても、途中で雨があがってしまう可能性もある。そうなれば、彼女は引き返すのではないか。そうファウスは考えていた。

 しかし、そんな彼の返答を生返事と勘違いしたのだろう。苛立ちを感じる声で主人が彼に困った命令を出す。

「恐れながら申し上げますが……天気と女心というものは、ままならないものかと存じます」

 仕方なく、ファウスは言葉を変えた。己自身にも言い聞かせるための言葉でもあった。

「女心とは……知った口をきくようになったなファウス」

「出すぎたことを申しました」

 苛立っている時の主人は、自分の期待通りの答えが返ってこないと子供のような言い方をすることがある。八つ当たりと分かっていながら、ファウスはそれを甘んじて受けた。

 その、一拍あと。

 窓に一粒の小さな水滴がとまる。余りに小さな水滴で、それはすぐには硝子を滑り落ちていかない。

 そんなたった一粒を、ファウスはしっかりとその瞳に映していた。

 少し待つともう一粒。今度はもっと硝子の低い位置に水がとまる。ファウスは窓に視線が釘付けになっていた。そんな彼の目に気づいたのだろう。主もまた窓を振り返り、「おお」と弾む声を発していた。

「ファウス、すぐ玄関に……」

「失礼いたします」

 主が命令を言い終えるより先に、まだ若いファウスはてきぱきと動き始めていた。しかし、伯爵はそれを咎めることはなかった。

 無意識に早足になりながら長い廊下を歩き、階段に差し掛かる。ちょうどその頃に、遠くで門の開く音が聞こえた。

 まさかと思った。

 まさかこんなに早く、彼女が来るはずがない、と。

 そう思いつつも、ファウスははやる心を抑えて階段を降り、そのまま玄関へと直進する。

 彼が扉を見つめて、ふぅと息を吐き出した直後。

 二回のノックが扉を叩く。

 まさかとまだ思いつつ、次の瞬間を待つ。これがもし彼女であれば、必ず言う言葉があるのだ。

「こんにちは、手紙を持ってきました」

 そして。

 本当にすぐその言葉は。

 放たれた。

 心臓が強く跳ねる気持ちも抑えきれないまま、ファウスは扉を開けた。

 そこには、手にレインコートをかけたまま、長靴をはいた侍女が立っていた。

 顔も髪も、ほとんどまったく濡れてはいない。

 雨が降り出すのを、屋敷の近くでずっと待っていたに違いないと思わせる時間と姿だった。

 一体どれほどの時を、彼女は待ち続けていたのだろうか。それを思うと、ファウスの胸が強く締め付けられる。ままならない雨が降ることを祈っていたのは、何も彼らだけではなかったのだ。

 見つめているファウスの前で、彼女は鞄を開けて皮袋を出す。いつもであればハンカチを出して綺麗に拭くところから始まるのだが、今日はその儀式はない。レインコートを脱ぐ時間もいらなかったため、いきなり手紙を取り出し始めた。

 いつもより早いのは、何も彼女だけではなかった。

 ファウスの主もまた、すっかり待ちくたびれていたために、もう階段を降りてきている。

 乾いた指先が、手紙を差し出す。ファウスはそこでハッとしながら手紙を受け取る──そしてすぐさま、それを主の手に奪わせた。

 主が去っていく間、二人で黙って待つ。その後、彼女はもう一通の手紙をファウスへと差し出す。

「雨が……降り出さなければどうした?」

 彼は手紙を受け取りながら、そう目の前の女性に問いかけていた。雨の日の手紙の配達をずっとしてきた彼女にとっては、こんな天気も想定内なのだろう。にこりと微笑んで、すぐにこう答えた。

「残念ですが、帰ります」

 それを聞いて、ほんの少しでも降ってくれて良かったと、ファウスは心底雨に感謝した。

「伯爵さまは……今日は手紙を心待ちにしていてくださいました?」

 ふとそれが気になったのか、珍しく彼女が自分の仕事について質問をしてきた。手紙を交し合う前だったならば、決して聞かなかっただろう。自分と彼女の関係が、前よりも近づいたと感じる瞬間だった。

 ただ、「おそらく……」という控えめな返事しか、ファウスには出来ない。主の心を彼が勝手にしゃべるわけにはいかないからだ。

「そう、ですか」

 それでも彼女は、ふふと微笑む。自分の仕事が、ちゃんと意味のあるものなのだと感じている満足そうな笑みだった。

 私も、心待ちにしていたのだがな。

 問いかけられないもうひとつの手紙について、ファウスも思うところはあったのだが、それを決して口に出せる男ではなかった。たとえ問われたとしても、やはり控えめな表現しか出来なかっただろう。


 その日の雨は、ほんの少ししか降ることはなかったため、長靴をはいた侍女は返事を受け取るとレインコートを着ずに伯爵家を後にする。

 いつもとは違う彼女の後ろ姿を、ファウスは玄関の扉を閉めるのをほんの少し遅らせて見送ったのだった。

 また明日、雨が降ればいいと願いながら。


『おまけ2 終』
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