泡沫(うたかた)の落日

第9話 自転車とコロッケ

 今日は一日中、渡部さんから受け取ったファイルの事が気になって仕方がなかった。早く見たいと思いながらも懸命に仕事に励み、あのファイルから気持ちを遠ざけてる自分。
 時間稼ぎのようにあのファイルを開く事を躊躇ったのは、恐らく目を覆いたくなるような過去の自分の姿と向き合う事への恐れの気持ちだったのかもしれないと思った。自分について知りたい。だけど嫌な部分は知りたくない。
 渡部さんに『今のままの私で居続けます』と豪語したのにも関わらず、時間が経過したら、ひ弱な気持ちになって尻込みしている私……。何かと理由をつけて、先延ばししているのかもしれないなとふと思った。
 朝の一件で、元々良く思われていないのに、更に回りの心証を悪くさせてしまった様で、周囲に感じる冷ややかな空気が更に、真実から目を逸らそうとする要因になった。 

 渡部さんから頼まれた在庫管理の仕事を終え、一番ベテランそうな大谷さんに用事を伺えば、明らかに嫌そうな迷惑そうな表情を浮かべ、「はっきり言わせてもらうけど、貴方はがさつで不器用で役に立たないし。今朝のような事が起きて、屋敷内の高価な調度品を傷つけたり壊される事になったらそれこそ大変なのよ。手伝われると助かるどころか足手まといで迷惑になるから、屋敷内の事は一切私達ベテランに任せて欲しいし、何かやりたいのなら、外の簡単な雑用でもやってみてはどうかしら?」ときつい口調で言われた。
 
 肩を落として外に出て、自分に出来そうな仕事は何かないかと探し回り、雑草除去、ガーデナーの剪定した庭木の片付けをやった。庭作業は嫌いではない。楽しいとも思う。本能的に私の好きな事の一つだと感じた。
 外の仕事なら、もう明日から旦那様と顔を合わせなくても良くなるしいいかなと、少し気持ちも軽くなった。
 喜びも半分、夕方旦那様と一緒に屋敷に戻って来た渡部さんから、社長の毎朝食の担当をこれからもお願いしますと頼まれてしまった。
 旦那様は私の事を嫌っている様子なのにどうしてなのかしら?今朝のように、また突然に怒り出したりしないかと不安に思った。でも、ここに住まわせて貰っている間は、気の重い事でも頑張ってやらなければ……。明日からは怒らせないように、もっともっと気を配らなくては……。
 
 夜は、通いのシェフが旦那様の夕食のお世話をするので、私の今日の仕事は終了。夕方、自転車で外出する事にした。気分転換に外の空気を吸ってみたい気持ちになった。
 自転車は、イングリッシュガーデンの一角にあるカントリー調のバーン(納屋)の中に、数台レトロなデザインのシティサイクルが置いてあり、ここの使用人が用を足すのに自由に使用して良い事になっている。渡部さんからいつでも自由に使用してもいいとの許可を貰ったので、気分転換に外へ出てみる事にした。

 バーン(納屋)内部の壁に取り付けられた、キーフックボードから自転車の鍵を取り、シティサイクルの施錠を解除し籐カゴタイプの前カゴに手提げバッグを入れ自転車にまたがる。記憶が無いにもかかわらず、本能的に自転車に乗れる事が分かる。ごくごく自然に当たり前のように……。自分の感じる本能のままに従えば、何が出来るのか出来ないのか、何が好きなのか嫌いなのか、何が得意で何が苦手なのか、誰かに聞かなくても知る事が出来るのではないだろうかと感じた。むしろ回りから植え付けられたイメージによって、その型枠に押し込められて、本当の自分の姿が歪められて誤った姿に変えられてしまっていないだろうかと、何故かそんな気さえして来た。過去の聖愛という人物は、あまりにも今の私とかけ離れすぎていて、違和感を感じずにいられない。記憶喪失というのはそう言う物なのだろうか……。

 綺麗に剪定されたガーデンの樹木や草木や花々に溶け込むように建てられたカントリー超のバーン(納屋)は、北米のバーンウッド(納屋を解体した古材)を使用し、蝶番や取っ手はアンティークの黒いアイアン使用の非常に凝った物。
 バーン(納屋)からメインアプローチまで続く小道は赤い小砂利を敷き詰めた上に枕木を並べたとても趣のある物だ。重厚なバラのアーチトンネルをくぐり、綺麗に整備された花壇を通り抜けたら、門まで続くメインアプローチに出る。メインアプローチは非常に細かな淡いオレンジ系色の小粒の石を敷き詰め固めたような、透水性天然石樹脂舗装道路。屋敷の大きなガレージの前を通り抜け、観音開きの自動開閉の大きな門扉の隣にある、手で開閉する小門の所で自転車を降り、自転車を手で押しながら門戸を開け、外に出た。

 外に出た途端に大きく深呼吸をした。あの屋敷の中に居ると息苦しい……。冷ややかに見つめる目、キツイ言葉。居場所の無い私。息が詰まりそうでたまらなかった。

 屋敷は緩やかな傾斜の坂を上った高台にあり、街路樹が綺麗に並ぶ自転車専用道路をゆっくりと下って行く。自転車は漕がなくても自然と前に進んで行き、柔らかな風が頬をくすぐる。
 途中、こんもりした見晴らし台のような東屋があり、赤く染まり始めた町並みが一望出来、とても美しかった。左手には高いビル群が混在し、駅にバスターミナル、デパートや大手スーパ、ショッピングモールなどがあり、点灯し始めた町の明かりが瞬いている。右手には住宅地があり、そのすぐ近くに商店街がある。昔から受け継がれてきた個人商店や小規模のスーパーマーケットなど、昭和のレトロな懐かしい雰囲気が漂う商店街だ。趣のある銭湯の煙突も見えた。
 懐かしいような、楽しそうな、そちらの方向に吸い寄せられるような気持ちになって、とても行ってみたい衝動に駆られた。

 ライトアップされた商店街ゲートを目指して自転車を漕ぐ。『おおぞら商店街』と書かれたゲートの前で自転車を降り、手押しできょろきょろと見回しながら店舗を物色するように歩き出す。
 『おおぞら商店街』というネーミングがレトロな雰囲気で味わい深くて、いい感じだなと思った。

 何故なのだろう、商店街を行き交う人の姿を見ていると、とても懐かしくてホッとするような安堵感を感じる。私がいつも見慣れていた光景のような……。私が本来居たはずの場所のような、同じ目線に近い場所のような……。何も記憶が無いのだから感覚にしか頼れないが、とても気持ちが落ち着くのだ。屋敷の中やあそこにいる人達からは何もそう言う感覚を感じないのだ。そう思うとまた疑問が生まれた。本当に私はあの屋敷に住んでいたのだろうか?旦那様は本当に私の夫だったのだろうか?

 『いろり屋』と言うお総菜屋さんの前で足を止める。懐かしいお袋の味のような、温かなおばあちゃんの味という雰囲気のお総菜屋さんだ。店先のショーケースを覗いてみる。

「いらっしゃい」

 年配のお店のご主人と奥さんの笑顔が温かい……。奥の方でご主人が揚物を揚げていて、奥さんが店先で接客。
 どれも美味しそうで目移りしてしまう……。ショーケース上には古びたCDカセットコンポが置かれていて、可愛らしい子供の歌声でコロッケの歌のテープが流れていて、ついついコロッケの方に目が行ってしまう。

「山菜おこわと、筑前煮と、ほくほくコロッケ2つと、白和えと、つくね2本下さい」
「はい。まいどありがとうございます」

 おばさんの笑顔が太陽の様に温かくて、心の中に染み入るようで、ついつい沢山頼んでしまった……。買った後からこんなに沢山どうやって食べるんだ!!と自分に突っ込みを入れ、苦笑した。

 おおぞら商店街からの帰り道、あの可愛らしいコロッケの歌が耳にこびりついてしまい、何気なく小声で鼻歌を歌う。
 レトロ調の自転車は、電動自転車で上り坂もスイスイ……。途中、あの東屋の見晴らし台で自転車を止めて、薄紫のグラデーションの空と夜景を楽しんだ。
 屋敷に到着した頃には辺りも真っ暗……。通いの使用人達は全て仕事を終えて帰ってしまい、屋敷の中には誰もいないはずだ。旦那様は家の中で一人寛いでいる頃だろうか……。
 この一帯は、警備会社のパトロール車が日中も夜間も巡回してて、セキュリティーは万全といった感じらしい。なので、夜間は常駐の使用人や警備員を置かないのかもしれない。

 自転車をバーン(納屋)に戻すまでの小道をうる覚えのコロッケの歌を歌いながら、自転車を左右にジグザグ運転しながら赤い道を進んだ。

 こんころりーんの コロッケ  美味しいコロッケ 
 あっつあつーのコロッケ ほっくほくーのコロッケ

 ひとくち食べたら みーんな笑顔

 こんころりーんの コロッケ 今晩はコロッケ……。

 これを誰かに聞かれたら絶対に馬鹿だって思われるだろうな……。と思いながら、それが可笑しいような、笑えるような……。そう思いながら、ついつい口ずさんでいた。
 ちょうど納屋の前に来た所で『コーロッケ!!』と言った所で、つんのめる様に急ブレーキをかけて急停車した。

 お……驚いた!!な……なんと。旦那様が居たのだ!!何でこんな時間に納屋に居るんだろう!!青ざめたような顔に目が点状態で呆然とこっちを見ていた。
 もう恥ずかしくて、恥ずかしくて、消えてしまいたかった。また怒り出すかも知れないと、恐怖心も湧いて、これは、自転車をパパッと片付けて、そそくさと逃げる事にした。

「こ……こんばんは。じ……自転車お借りしました」

 慌てて自転車に施錠して、前カゴの荷物を取り出し、旦那様の横をすり抜け、キーフックボードに自転車のキーを戻し、早足でこの場を離れようとした時だった。

 「ヒャっ……」

 突然に手を掴まれて、猫を踏みつぶしたような変な悲鳴を上げてしまった。(な……なっ……何だろう……)
 怖い顔をして、腕を掴まれ、足が竦んでしまい恐怖心が体を駆け巡った。

(第10話に続く) 
 
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