幸せの時間
幸せの時間
 今朝も僕は彼女を探す

 通勤途中の駅のホームで

 今朝も僕は彼女の姿を探す……



 時刻は午前7時55分。
 勤務先の最寄り駅についた電車のドアから、プラットホームに大量の人たちが吐き出される。改札に続く階段に向かう人の流れから外れて、僕はある女
ひと
の姿を探している。
 彼女はとてもスタイルが良くて、綺麗な立ち姿や艶々の美しく長い髪は、遠目で見てもよくわかるんだ。
 今日も僕は彼女の姿を認めると、人の波をかき分けて彼女に近寄ると声をかける。
「おはよう」
「あ、おはようございます。先輩」
 その可愛い声と太陽のような笑顔が、毎朝僕の疲れた心を癒してくれる。そして僕に、今日一日の活力をくれるんだ。

 彼女は同じ課の一年後輩で、頑張り屋さんで人懐っこい性格なので、課のみんなに可愛がられている。美人でスタイルが良い彼女は、当然ながら会社の男共のターゲットになっていて、何を隠そう、僕もそのうちの一人だった。何とか出し抜こうとする輩が、彼女にさまざまなアプローチを仕掛けているという噂を聞くにつけ、僕の心は千々に乱れていた。
 そんなある日、いつものように駅のホームに降り立った僕の目の前に、彼女の後姿があった。おなじ課であっても僕はほとんど彼女と会話を交わしたことはなかったので、急に声をかけるのもどうかと思い躊躇したんだけど、黙って通り過ぎるのも変だと思い直して、彼女に声をかけた。
「おはよう」
 背後から声をかけられ、彼女は肩を少し振るわせてびっくりした様子だったけど、声の主が僕だとわかると、ホッとしたような笑顔を浮かべて挨拶を返してくれた。
「あ、おはようございます」
 その太陽のような笑顔が僕の心を温かくして、つられて僕も笑顔になった。
「いつもこの時間なの?」
「はい、先輩は?」
「僕もいつもこんなもんだよ」
「そうなんだ~ おウチを出る時間とか決めてるんですか?」
「だいたいね。ペースを乱すと気持ち悪いじゃん」
「フフっ、先輩らしいですね」
「そうかなぁ」
「そうですよっ。先輩って几帳面でしょ? 時間とかきっちりしてそうだなって思いましたから」
 意外なほど彼女が僕のことを見てくれているのを知って、僕はとても気を良くしていた。すべての不快なことを流し去ってくれるかのように。
「会社までご一緒してもいいですか?」
「ああ、もちろん」
 そう言うと僕たちは改札を通り、会社に向かい肩を並べて歩き始めた。そしてそれが、僕の「幸せの時間」の始まりになったんだ。

 それから毎日、僕と彼女は駅から会社までの短い道のりを一緒に歩いた。たわいのない会話を交わし、彼女の笑顔を見つめるひと時は、僕にとってかけがえのないものになっていった。会社にいるときには絶対にみせることのない柔らかな表情は、いつも僕を虜にしていた。その時間だけは彼女を独占できる、その優越感に僕は酔っていたのかもしれない。
 ただ、僕は彼女に対して、それ以上に踏み込んだ関係をつくることに躊躇していた。男達のあからさまなアプローチに、彼女が嫌悪感を抱いていたのも知っていたし、毎日連れ立って出勤してくる僕たちに、あらぬ噂を立てられていることにも気づいていたので、いきおい僕は慎重にならざるを得なかった。



 しばらくはその穏やかな「幸せの時間」を楽しんでいた僕だったが、ある日彼女の言葉でそれが綻びを見せ始める。僕が自重して守ってきた距離感を、彼女のほうから縮めようとしてきたのだった。
 その日彼女からの社内メールが届いた。
『今晩、時間をいただけませんか?』
 突然の彼女からのアプローチ。戸惑いを覚えながらも返事を返す僕。
『いいけど、どうかしたの?』
『詳しい話は、その時でいいですか?』
『わかった』
『じゃあ、仕事が終わったら駅で待ってますから』
 そのメールを最後に、彼女は席を立ち自分のブースから出て行く。その姿を目で追いながら、僕は落ち着かない気持ちになっていた。
 その後の仕事にはまったく身が入らず、終業時間が来るとそそくさと帰り支度をして、僕は会社を後にした。待ち合わせ場所の駅に着くと、僕は通りが良く見えるように改札に背を向けて、柱に背中を凭せ掛けた。
 彼女はすぐに現れ、僕は彼女に手を上げて合図した。少しはにかんだような笑顔を浮かべ、彼女は僕に近寄ってきた。
「お待たせしました」
「ぜんぜん待ってないから大丈夫。そこの居酒屋でいいかい?」
「どこだっていいです。あなたと一緒なら」

 あなたと一緒なら。

 今確かにそう言ったよな? その言葉の真意を確かめようとしても、俯いて歩いている彼女の表情を窺い知ることは出来なかった。僕は近くにあった居酒屋の暖簾をくぐり、テーブル席に彼女を誘うと、反対側の席に座を占めた。

 しばらくの間は酒を飲み料理をつつきながら、いつものように他愛のない話をしていたんだけど、彼女が突然思いつめたような顔をして下を向いてしまったので、心配になって僕は彼女に声をかけた。
「どうしたの?」
 両手の拳を握り締め、それを見つめるように俯いている彼女に、僕は違和感を感じていた。
「どうかしたのかい? 何でも話してくれていいんだよ」
 すると彼女が意を決したように顔を上げた。
「先輩は、わたしのことどう思ってるんですか?」
「え?」
「わたしはあなたのことが好きなんですけど、あなたはわたしのこと、どう思ってるんですか!」
 突然の告白。事態の急展開に僕はついていけなかった。
「ちょ、ちょっと待って」
「もう待てません! わたしはこんなに好きなのに、あなたはちっともわかってくれない!」
 彼女の、激しすぎる愛の告白。思わぬ形で彼女の気持ちを知ることになった僕は、戸惑いを隠すことが出来なかった。
「どうしてそう思う?」
「だって、あんなに毎朝一緒に歩いてても、あなたはわたしの連絡先一つ訊いてくれたことないし、わたしに興味がないのかなって……」
 僕が彼女との距離感を保つためにしてた努力は、どうやら裏目に出てしまってたみたいだ。それに気づいた僕は、涙を流し始めた彼女の手を取って声をかけた。
「ごめん……」
「どうして謝るんですか?」
「気づいてあげられなくてごめん」
 そして、顔を上げた彼女の涙に濡れた瞳を見つめて、
「今まで『好き』と言ってあげられなくって、ごめん」
 僕のその言葉に、彼女は目を見開いた。
「僕は僕の気持ちを伝えて、君が僕のことを避けるようになって、あの穏やかな時間がなくなってしまうのが怖かったんだ。だから君を好きだとは言えなかった。でもそんなに君が苦しんでるとは知らなかった。申し訳ないことをしたと思ってる」
 そう言って彼女を見ると、涙を流しながらも彼女はあの笑顔を浮かべていた。
「もういいんです」
「でも……」
「もういいんですってば。だって『好き』って言ってくれたじゃないですか」
 彼女は僕の手をキュッと握り締めて言った。
「もう一度ちゃんと言って欲しい」
 僕は彼女の瞳を見つめながら、彼女に愛の言葉を伝えた。
「君が好きだ、多分最初から」
「わたしも最初から、あなたのことが好きでした」
 指を絡めあい、見つめあいながら。
「愛してる」
「わたしも、愛してる」
 
 居酒屋を出た僕たちは、そのまま僕の部屋へとなだれ込み、お互いを貪りあい愛し合った。そして抱き合ったまま朝を迎えたんだ。



 それから半年後。

 地方でのプロジェクトで出向させられ、会社に戻ってきた僕を待っていたのは、信じられない出来事だった。
 プロジェクトの報告が終わって、課長に呼び出され聞かされた話。それは予想だにしていなかったことだった。
「俺さ、結婚することになったんだ」
 その時課長の口から出た名前に、僕は耳を疑った。彼女は目の前の男に孕まされ、結婚することに承諾したという。俄かには信じがたい話に、真偽を確かめるべく僕は行動を起こした。
 彼女のアドレスにメールを送る。
『今日、時間をくれないか?』
『わたしもあなたと話がしたい』
 即座に返事を返してきた彼女。そのことに希望を持った僕は、終業時間をじりじりしながら待った。

 手を上げて合図した僕を見つけた彼女の顔に、あの笑顔はなかった。駅構内の喫茶店に向かい合わせで座り、僕は彼女の言葉を待った。
「ごめんなさい」
 それが彼女が最初に発した言葉だった。それが何を意味するかは、僕には十分すぎるほどわかっていた。
「どうして?」
 現実を突きつけられた僕には、その問いを発することが精一杯だった。それに彼女が返してきたのは、至極単純な言葉だった。
「淋しかったから」
 そんな短い言葉では到底納得ができない僕は、思わず彼女をなじるような言葉を口にしてしまった。
「淋しいからって、誰とでも寝るような人だったのかい? 君は」
 それを聞いた彼女の瞳に、一瞬怒りの色が浮かんだように見えたけど、それはすぐに諦めと悲しみの色に変わった。
「そう思われても仕方ないですね。あなたには本当に酷いことをしたと思ってるから」
 そう言って、彼女はフーっと長い息を吐いた。僕はさらに畳み掛ける。
「たった半年、待てなかったのかい?」
 それを聞いた途端、彼女の瞳に怒りの炎が燃え上がった。
「淋しかったのよ! 連絡も取れずいつ帰ってくるかもわからないあなたを待ってるのが、どんなにつらいことなのかわかる?」
 彼女の目に涙が浮かぶ。
「あの人は親身になって相談に乗ってくれたわ。一生懸命わたしの気持ちに寄り添ってくれようとしてた。あなたには悪いと思ったけど、どんどんあの人に引かれていったの」
 絶句している僕の顔を見つめながら、彼女は言葉を続ける。
「『俺はお前を待たせない』って言われて、あなたのことを諦めて彼の気持ちを受け入れたの。その時の証がわたしのお腹の中にいるわ。だから……」
 彼女は言葉を切って、じっと僕を見つめた。
「もう、あなたのところには戻れないの」
 彼女の頬を一筋の涙が伝った。僕はそれを黙って見つめるだけだった。
「信じてもらえないのはわかってるけど、どうしても言っておかなきゃいけないことがあるの」
 いく筋もの涙が、彼女の頬を伝っていく。
「あなたのことを、愛してました」
 過去形のその言葉で「幸せの時間」が完全に瓦解してしまったことを知らされた僕。言葉を発することも出来なかった。
「あの人が待ってるから、もう行きます。ごめんなさい」
 そう言って立ち上がり、小走りに店を出て行った彼女を、僕は呆然と見送ったんだ。



 抜け殻のようになった僕は、駅を目指して歩いていた。
 あの「幸せの時間」が始まり、濃密な記憶がつまった場所へと。
 すべてをリセットして、新しい一歩を踏み出すために。
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